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株式会社日立総合計画研究所

社長コラム

取締役社長 白井均のコラム

第1回:歴史の中の40年

4月1日付けで日立総研社長に就任いたしました。

日立総研が設立されたのは1973年5月ですので、本号は、ちょうど40年目の節目の発行となります。

日立総研は、日本人では数少ない「ローマクラブ」のメンバーであった駒井健一郎、当時日立製作所会長の発案で設立されました。ローマクラブとは、それに先立つ1970年3月に資源、環境、人口、軍備拡張などの地球的課題に対処するために設立された組織です。

ローマクラブの名を世界に知らしめたのは、1972年に公表された「成長の限界」(Limitation of Growth)という報告書です。人類が現在のまま人口増加や環境破壊を続ければ、20年程度で資源が枯渇する可能性があること、環境悪化や資源制約などにより人類の成長はいずれ限界に達することなどを予測した「成長の限界」は、ニクソン・ショックによって戦後自由経済秩序の再構築が迫られていた当時の世界に衝撃をもって受けとめられました。今から振り返れば、この時期はその後の激動の始まりだったとも言えます。駒井健一郎には、自らのローマクラブに関わった経験も踏まえ、経済、社会、グローバル、さまざまな視点から将来を展望するシンクタンクが、その先に予想される激動の時代に不可欠との強い思いがあったのでしょう。日立総研設立の5ヵ月後には第一次オイルショックが起こり、「成長の限界」の予測は、世界の人々に現実感をもった警鐘となりました。

1975年に大学に入学した私の記憶の中にも、「ローマクラブ」と「成長の限界」は印象的に残っています。それは、入学直後、教養課程の「環境経済学」の講義を通じたものです。「環境」と「経済」がひとつにつながった講義名は当時としては極めて新鮮でしたが、その中で紹介された「成長の限界」の内容は、夢と希望でいっぱいの新入生には、いきなり冷水を浴びせられたような知的衝撃でした。担当教授が、「幸いオイルショックのおかげで世界経済が停滞しており、これは地球環境の視点では良いこと」と語っていたことが今でも記憶に残っています。中国は未だ改革開放政策以前、アフリカはもちろんアジアでも現在よりはるかに飢餓や貧困が広がっていた時代です。このまま世界経済が停滞し続けて良いとはとても思えませんでしたが、宇宙船地球号の中で人類は「解けないパズル」を突きつけられているかのように感じました。

1980年代に入り、世界経済は第二次世界大戦終結後30年以上保ってきた「管理された資本主義」から「市場重視型経済」へとその秩序を大きく転換させました。金融緩和、民営化など規制緩和の流れが先進国中心に加速していきました。さらに90年代に入り冷戦が終結すると、地球上の人口の8〜9割までが自由な市場経済のメカニズムのもとで活動する時代が到来します。かつて社会主義大国であった中国も、「社会主義市場経済」のもとで、世界第2の経済大国へと発展を遂げていきます。

市場重視、オープン・エコノミーのメガトレンドは、中国に限らず多くの途上国に経済成長の機会を与えました。一方で、市場メカニズムが国境を越えて貫徹するという新たな経済を安定的に制御するための十分な知識と経験の蓄積は、各国の政策当局にも、経済学などアカデミズムの世界にもありませんでした。その結果、実物経済も金融市場も高いボラティリティを抱え込むこととなりました。

21世紀に入ってからもITバブル崩壊、米国がイスラム過激派のテロ攻撃を受けたSeptember11、リーマンショック、東北の大震災と原子力発電所事故など、日立総研設立から40年の歳月の中で、世界は多くの「未曾有の事態」に直面してきました。ポスト京都議定書の新たな合意の難行が続いている環境問題だけでなく、民族や宗教をめぐり未だ世界各地で続く衝突など、現代を生きるわれわれは、「成長の限界」の時代よりはるかに複雑な「解けないパズル」の中にあります。

世界はより複雑に、よりダイナミックに変化し先行きの不透明性も高まっています。日立総研は40年の歴史の中で培った知識、情報、価値創造の基盤を生かして、シンクタンクとしてより高い水準の分析、洞察、構想力を追求していきたいと思います。