社長 嶋田惠一のコラム
方向音痴とは、自分のいる位置を見失いがちな性質のある人、と定義されるそうです。現象面では、周辺から風景や建物など必要な情報を得ても、誤って行き先の方向を判断してしまったり、地図の上で周囲の地形を元に現在位置を見付けることが苦手であったりすることを意味するとのことです。
私は小さい頃から、かなりの方向音痴で家族と出掛けて一人だけはぐれて迷子になることもありました。結婚式の際の友人の祝辞も「これから二人で歩む人生の中で、奥さんは彼の後から黙ってついて行こうなどと決して考えてはいけません。彼が右へ向かおう、と言ったら左へ向かうべきです」、と言うものでした。
一般に人間は、主観に基づいて何らか自分を中心とする座標軸を形成して、周囲の状況と自分の場所を把握するか、太陽や星、地図のような客観的な座標軸によって自身の位置を確認しているはずですが、何らかの理由によって、こうした能力が劣ってしまったのでしょう。ある時期まで、自助努力で克服できるのではないか、あるいはせめて地図を持って歩けば大きな失敗は避けられるのではないか、と考えて取り組んだこともあります。いずれも努力に比べて改善効果は限定的であることがわかりました。
会社に入ってみたら、私にとって夢のような技術が開発段階にあることを知りました。現代では広く普及したカーナビですが、1980年代初めの頃開発部門の研究者に尋ねると、「ついに誤差が10キロメートルまで縮まった」、と興奮気味に語るような状況でした。これはまだ夢の技術、と感じたことを覚えています。カーナビは、その後衛星による位置特定GPS(グローバル・ポジショニング・システム)を使った市販モデルが1990年に発売され、一気に普及しました。現代では、スマホに歩行者ナビのソフトをダウンロードすれば、私のような人間でも多少の手間はかかるにせよ、一般の人と同様に目的地に到達することができるようになりました。
30歳を過ぎた頃から海外出張がかなり多くなり、世界地図をながめる機会が増えました。それまで世界地図はなんとなく万国共通というイメージを持っていたのですが、1986年に中国の政府機関を訪問した際に壁に貼られていた地図を見ると、朝鮮半島はひとつの国となっており、首都はピョンヤンでした。世界には多種類の世界地図が存在し、それはおのおのの時代の国家の利害を反映したものであることに気付きました。
どの国を真ん中に置いた世界地図かによって世界の見え方は大きく変わります。自国が真ん中にある世界地図を見慣れてしまうと、どうしても自国中心に世界が動いているかのように考えてしまいます。極東の島国である日本が真ん中にある世界地図を見慣れてしまうと、思わぬ錯覚に陥ることもあります。先日、南アフリカ共和国のケープタウンに出張する機会がありました。出掛ける前に、何人かの同僚や友人が心配して、「エボラは大丈夫か」、と声を掛けてくれました。最近、エボラ出血熱が大流行したギニア、リベリア、シエラレオネの西アフリカ3カ国とアフリカ大陸の南端に近いケープタウンでは同じアフリカ大陸とはいっても直線距離で5,000キロ以上離れています。この距離を考えるとインドネシアで鳥インフルエンザが流行しているので、日本に行って大丈夫か、と言っているに等しい心配なのですが、日本からアフリカ大陸までの距離の遠さの感覚がまずあって、アフリカ大陸自体の広大さへの距離感がつかみにくくなっているのだと思います。
以前シンガポール勤務の時は、執務机の横に東南アジアが中心にある世界地図を貼っていました。この地図では、シンガポールの位置するマレー半島を中心に東に南シナ海、西にベンガル湾、インド洋と広大な海洋が広がっていて、ASEAN各国からインドまで、海でつながっていることがよくわかります。歴史をさかのぼれば、近代世界史における経済交流の中心は、東南アジア、インド洋を中心とした海域でした。14世紀には環インド洋経済圏にイスラム文化が広がり、東シナ海、南シナ海は中国の影響下にあって、この地域を通じて二つの文明が交差していました。かつて民俗学者の梅棹忠夫は、東洋と西洋の間に、いずれにも属さない「中洋」があること、それは海洋ではインド洋を中心とした地域であると指摘しました。西洋、すなわちヨーロッパの人々はインド洋を介して多くの物品を持ち返り、それがヨーロッパに繁栄をもたらしました。
シンクタンクの仕事では、世界地図を俯瞰(ふかん)する地政学的大局観を歴史観、文明観と重ねて多面的に事象をとらえることが重要です。長い歴史の変遷を経て、現在では東南アジア、インド洋をめぐる地域が再び世界の貿易、経済発展をつなぐ大きな舞台となっています。中国はこの地域に「海のシルクロード」の構築を提唱し、周辺国の港湾整備などインフラ構築支援を進めることにより関与を深めようとしています。歴史上、この地域を経由した貿易のメリットを享受して最初に経済発展を遂げたのは、ユーラシア大陸の両端にある「海洋国家」日本と英国です。この地域の発展は、今後の日本にとっても大きなチャンスであり、確かな座標軸をもって新たな「海図」を描くべき時です。
いつの時代においても国家や大きな組織のリーダが、座標軸を失い、進むべき方向を誤っては後に大変な損失をもたらします。過去の歴史や将来の展望、地域の動向も踏まえ、ダイナミックな視座で判断することが求められます。
(参考文献)
Robert D. Kaplan(2010)、「Monsoon: The Indian Ocean and the Future of American Power」(奥山真司、関根光弘訳「インド洋圏が、世界を動かす」インターシフト、2012)
梅棹忠夫「梅棹忠夫著作集(第4巻)-中洋の国ぐに」中央公論社、1990年
川勝平太「文明の海洋史観」中央公論新社、1997年