社長 嶋田惠一のコラム
今年はビートルズ来日50周年に当たります。ビートルズの4人のメンバーが生まれ育ったのは、英国イングランド北西部に位置する港湾都市リバプールです。17世紀にイングランドと北米との貿易が盛んになると商業都市として栄え、19世紀にはアメリカ大陸、西インド諸島との三角貿易の拠点として発展しました。大西洋を臨むこの街の公園には、アメリカ大陸へ移住していった若い家族の銅像があります。かつて多くのヨーロッパの人々が、リバプールの港から新大陸への夢を抱いて旅立っていったのでしょう。
音楽での成功を夢見たリバプールの4人の若者は、1962年10月に「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューし、瞬く間に英国の音楽シーンを席巻します。64年1月には欧州大陸に渡りフランス公演、2月には米国の首都ワシントンに乗り込みワシントン・コロシアムで初の米国公演を行います。今では信じられないようなことですが、ビートルズ以前に、英国から米国へ進出して成功したミュージシャンは皆無に近い状況でした。勢いは止まらず、6月からはデンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランドを回る世界ツアーを実施、日本公演を行った66年には、フィリピンでも公演しています。65年には、ロック・ミュージシャンとして初めて大英帝国勲章(MBE)を授与されるのですが、その理由は「英国経済が低迷する中、レコード、映画などを通じ外貨獲得に貢献した」というものでした。メンバーの中で最も若いジョージ・ハリソンは22歳、年長のジョン・レノン、リンゴ・スターでもまだ25歳になるころのことです。
ユーラシア大陸の西側に位置する英国は、中世の時代からグローバル化の進展した今日まで世界との通商の恩恵を最も享受してきた国です。ビートルズの成功も、若者向けの音楽が世界市場を視野にビジネスとして成立することを示す先駆けとなり、その後数多くの若いミュージシャンが英国から世界に羽ばたきました。
その英国が、EUという世界最大の単一統合市場から離れるという衝撃的な決定をしました。第2次大戦後の世界経済の発展は、グローバリゼーションの拡大、すなわちヒト、モノ、カネの自由な移動を2国間、多国間、地域などで重層的に進め、自由な市場を拡大する取り組みによって支えられてきました。とりわけ英国は、79年に首相に就任したマーガレット・サッチャーが主導したサッチャリズムと呼ばれる経済政策によって、グローバル企業がビジネスを展開しやすい市場重視の環境整備においても世界をリードしました。サッチャリズムは、その後米国のレーガノミクスにつながり、冷戦終結を経て市場化の流れはグローバルに広がりました。今や、地球上の人口の9割以上がグローバルな市場経済のメカニズムの中に組み込まれ、発展途上国であっても、外国資本への開放政策などを取ることにより、成長の機会を得ることができるようになりました。
これまでのグローバリゼーションの思想的背景には、市場メカニズムが国境の壁を越えて貫徹すれば、グローバルに資源の最適配分が達成されるという、古典的な経済学が前提とするような素朴な市場へのオプティミズムがあります。確かにグローバリゼーションの進展は、先進国、新興国を問わず多くの国・地域の経済発展に貢献してきました。一方でグローバリゼーションが進んでも、「国家」はナショナルな部分から離れることはできません。「国家」は国内の経済的福祉(ウェルフェア)の向上を図る責任を放棄することはできないからです。「個人」が経済的福祉の多くを「国家」に依存するという状況も見渡せる将来において変わることはないでしょう。
現在、先進国、発展途上国いずれにおいても国内の分裂が深刻となっています。富裕層と貧困層、中央と地方の対立、移民増加による民族間、宗教間対立など、多くの「国家」が国内に複数の対立軸を抱えています。対立の背景には、経済の長期低迷、失業率の高止まりなどの状況に社会的セーフティネットなど政策対応が追いついていないこともありますが、不安や不満が過度に膨らんだ面もあります。英国の国民投票においても、ロンドン、エディンバラなど移民流入が多い都市で残留票が多く、移民流入が少ない地域で離脱票が多いという逆転現象も目立ちました。
過剰な愛国主義や地域主義に冷静かつ論理的に対応するためには、グローバリゼーションが見た素朴な経済的繁栄の夢を、理論と政策の両面から鍛え直す必要があります。オープン・マクロなどの経済学の進化も引き続き重要ですが、経済学だけにその任を負わせることはもはや困難な状況です。民族、宗教、技術など多面的なアプローチが不可欠となっています。
(補足)
大英帝国勲章(Order of the British Empire)には五つのランクがあり、ビートルズの4人が授与されたのは、5番目のランクのMBE(Member of the Order of the British Empire)。ただし、ジョン・レノンは1969年に自らの意思で返納。