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株式会社日立総合計画研究所

社長コラム

取締役社長 白井均のコラム

第15回:技術革新と向き合う

 全48作品が公開された映画「男はつらいよ」シリーズの第1作が公開されたのは1969年。渥美清さん演じるフーテンの寅こと、車寅次郎の妹さくらはまだ独身で丸の内のOLとして働いていました。彼女の仕事はキーパンチャー。当時の女性にとって花形職種の一つだったのでしょう。1980年代中ごろに、磁気ディスクや端末が低価格化するとともに、コンピュータへのデータ入力手段としてのパンチカードの役割は一気に低下し、キーパンチャーという仕事も程なく消えていきました。
 電話をかける際に「もしもし」と言うのは、かつて電話交換手が電話をかける人と受ける人の中継ぎをしていた時代に、つなぎ先の相手に失礼とならぬように「申し上げます」と言ったことが起源とされています。もしもしは「申し(もうし)」を連ね短縮した言葉です。その電話交換手の仕事も、日本では1979年に自動交換化が完了すると、その後は大きく減少しました。
 技術革新はこれまでも人々の生活や仕事を大きく変えてきました。近い将来技術革新によって、最も大きく変わるとされているのが自動車市場です。電気自動車、水素自動車も既に市販され、自動運転の実用化も目前に迫っています。自動車はこれまでも進化を続けてきましたが、もし自動運転が普及し、自動車を運転するという行為自体が激減すれば、その影響はこれまでの技術革新をはるかにしのぐはずです。
 自動車の技術進歩を見つめ、ジャーナリズムの立場から批評家精神をもってチェックする自動車評論家という仕事があります。1976年に「間違いだらけのクルマ選び」を出版し、特定の車種への直接的批判もいとわず辛口の評論を展開し、日本における本格的な自動車評論の道を切り開いたのは徳大寺有恒氏でした。国産車にまだ性能や走りの大きなバラツキがあった時代、「間違いだらけのクルマ選び」は発売とともにたちまちベストセラーとなりました。以来徳大寺氏は、2014年11月に亡くなる直前まで書き続け、最後となった2015年版まで原稿を寄せます。徳大寺氏の厳しい視線は、自動車メーカだけでなくユーザーにも向いていました。クルマを作るのはあくまで自動車メーカですが、ユーザーの質が低ければメーカはそれに甘えて優れたクルマを作らないと考えたのです。1976年の第1作の冒頭では、「最近私は国産車が現在のように嘆かわしい姿にとどまっている責任の半分は、ユーザーが負うべきものではないかと考える」とし、「その国で生産されるクルマを見れば、その国民のものの考え方がわかる」、そして「日本のクルマを愛するがゆえに、国産車の現状に警鐘を打ち鳴らす」と宣言します。
 現在でもアマゾンなどのネット販売で1976年の1冊目から最新版まで「間違いだらけのクルマ選び」の各年版を購入することが可能ですが、ここで不思議な状況が起こっています。1980年代前半のものだけが1万円以上の高値が付いているのです。私はその理由を、国産車の出来のバラツキも大きかったが、最も個性あふれるクルマがそろい、徳大寺氏の評論が最もさえわたった時代だったためではないか、と勝手に解釈しています。
 この時代にはスペシャルティカーというジャンルがあり、「ベースは一般的な乗用車を用いているが、スポーティなボディを与えて、スポーツカーのようなスタイルと乗用車の使いやすさを合わせ持つクルマ」(1981年版)と定義されていました。若い男たちが自動車に憧れ、女性を誘うにはまずクルマと考えていた時代、そうしたニーズに応え、決して安くはないが、ローンを組むなどして頑張れば何とか手が届いたのがスペシャルティカーでした。トヨタのセリカ、日産のシルビア、ホンダのプレリュードなどが当時の代表的な人気車です。徳大寺氏はあたかも若者に外見に惑わされずクルマの本質を見よ、と言わんがごとく挑戦的な批評を展開します。「スペシャルティカーというのはどこかインチキ臭い」(80年版)に始まって、個々のクルマについても「スポーティなのはボディだけ」(80年版)、「スペシャルティカーと名乗るのも恥ずかしすぎる」(80年版)、「スタイルは似ているが中身は似ていない川越ベンツ」(81年版)、と容赦ない批評を展開します。一方で、数年後改善されたクルマに対しては「徐々に改良されて立派なスポーツになった」(85年版)、「35歳以上の人に乗ってもらいたい大人のクルマ」(85年版)、とその進化をたたえます。今では乗用車生産から撤退したいすゞがイタリアのジウジアーロのデザインによる117クーペを販売し、東洋工業(現在のマツダ)がガスイータ(燃料食い)との批判を受けながらもロータリーエンジンのスポーツカー、サバンナRX-7を販売するなど個性的なクルマがあふれていた時代、徳大寺氏にとってもエキサイティングだったことでしょう。
 常に厳しい批判的視座に立つ徳大寺氏でしたが、次世代のクルマ作りに挑戦する企業と技術者たちに対しては温かいエールを送り続けました。最後の原稿は亡くなる前月に試乗したトヨタの燃料電池車MIRAI(2014年12月発売)に関するものでした。「やれエコロジーとか、水素社会がとか、口先だけならいくらでも言えるところを、とにもかくにも商品として具体化したトヨタの勇断はいくら褒めても褒めきれない。技術説明会の最後に、このクルマの開発担当者が十数人、ずらりと勢ぞろいして自己紹介したのだが、彼らの一人ひとりが誇らしげに胸を張っていた」(2015年版)。
 1980年代前半と比べ、クルマの性能は飛躍的に向上し、乗り手を選ぶ「暴れ馬」のようなクルマは姿を消しました。最近では自動車評論家をめざす若者も、自動車雑誌の社員募集に応募する人も少なくなっているそうです。一方で、技術革新の成果は、現在の立ち位置を冷静に捉え、進むべき未来への確かな視座を持った批評家精神によってこれまでも鍛えられてきました。一般論ではなく進むべき方向を可能な限り具体的に示す役割は今後の社会においても欠くことができません。立場は異なりますが、シンクタンクも経済社会において、そうした役割の一端を果たしていくべきと考えます。

(参考文献)
徳大寺有恒「間違いだらけのクルマ選び」(1976〜2015年版)、草思社
注:2011〜15年版は島下泰久氏との共著