インド共和国首相マンモハン・シン訪日:最近の傾向と歴史観
執筆:Samuels International Associates, Inc.
翻訳:日立総合計画研究所
翻訳:日立総合計画研究所
週11便という日本とインドを結ぶ直行便の数は(676便という日中間の直行便数と比較して)、日印両国間の関係を象徴しており、日印関係は今後も長らく低調であることが運命づけられていると思われるかもしれない。しかしインドのマンモハン・シン首相は、2006年12月13日から16日まで東京に滞在した際、安倍首相との首脳会談において日印関係を大きく進展させる絶好の機会を得た。
日印関係の歴史的背景
東アフリカから中東、南アジア・東南アジアを横切り、極東に至るまでの三日月状の地域は「不安定の弧」とよばれる地域だが、インドと日本を両極とする三日月状の地域に焦点を当てると、アジアにおける日印関係の戦略的評価は、その地域における最大関心事だった。
トルーマン大統領の下で国務長官を務めたアチソンは、1950年1月の上院での証言において、米国はアジアにおける関心の中心を、日本とインドを両極とする三日月状の地域に位置する諸国へと移行する必要があると述べた。また池田隼人元首相は、1961年のインドへの公式訪問時に、日本政府とインド政府がアジアにおける安全保障システムの要であることに注目していた。
その40年後に小泉前首相は、彼が掲げた日印グローバルパートナーシップ構想を補完すべく、アジア経済共同体の理念である「優位と繁栄の弧」という考え方を発表した。また麻生太郎外相は、2006年11月のスピーチにおいて、安倍政権の外交戦略である普遍的な「価値の外交」ビジョンを展開することを狙い、インドを含む広範な「自由と繁栄の弧」という考え方を明らかにした。
しかし日印関係の現実は、むしろ調和に欠け、かなり互いの利害が突出したものであり、 特にアジアにおける三日月状の地域の中心に位置する中国に関しては、その傾向が顕著だった。
毛沢東政権下の中国が1960年代前半にインドとの国境紛争において勝利を収めた時でさえ、日本の防衛庁は、中国が日本への脅威を引き起こすことはないと、公式に宣言し続けた。 実際に池田政権の代表団は、中印紛争の二つのフェーズ間に当たる1962年11月、中国との貿易をめぐる画期的な覚書(いわゆる「日中LT貿易覚書」)に、仮調印さえした。
それから40年が経過した今日、日本の防衛庁が10年ごとに策定する防衛大綱においては、明らかに中国を防衛上の関心事としているが、一方2006年5月に訪日したインドの防衛大臣は、日本の防衛庁長官と訪問先の防衛庁において肩を並べながらも、いかなる中国脅威論にも耳を傾けようとはしなかった。
実際に、日本政府において様々な中国脅威論が外部に向けて発信されたとき、(表現は、「かなりの脅威」、「現実的な脅威」または「潜在的な脅威」とさまざまだが)、インドの外交および防衛政策立案者は、中国に対する脅威の文言を、対中政策の正式な用語として使用することを避けた。
中国問題以外の分野においても、インドと日本の地理的な距離の隔たりは、両国における現代外交政策の戦略的指針を隔ててしまった。
外交政策における世界観の隔たりを前提に、お互いの交渉相手をそれぞれの重大関心事項の枠組みの中に取り込む日印の政治的手腕による努力は、絶えず、概念的かつ地理的な不鮮明さの中に消え去る傾向にあった。
期待はずれな過去、そして、有望な未来?
歴史的にはつまずきがあったものの、日本とインドは双方の関係を精力的に前進させる重要な好機に立っている。しかしこの機会の窓は、長い間開いたままとなりそうにはない。
恐らく近年のどの日本の首相よりも、安倍晋三は親印家であり、彼は、今後10年で日印関係は、日米関係に追いつくかもしれないことを暗示さえしている。
インド政府は同様に、1991年のインドの経済危機時に早期支援を提供した日本に感謝の気持ちを持つ、当時の蔵相であり現首相のマンモハン・シンを有している。彼は、安倍首相と同様、地域の平和と安定を生み出す日米豪印という民主主義国による四カ国対話のアイデアに引かれている。
第2に、1980年代半ばの円高に続く日本のアジア向け投資拡大の中心は、時に「系列化」とも呼べるものであった。このモデルの下では、日本の多国籍企業のアジア子会社に対する部品供給と組立てシステムの中心は、日本の資本や技術と密接な共同出資関係を持つグループ内現地企業群から成り立っていた。
マンモハン・シンが主導した経済改革により、中小規模の資本集約型製造業への対内投資の領域では成果が出始めている。そして、費用低減を意図した、日本の多国籍企業がコントロールする垂直統合的生産ネットワークのインドへの移転は、ついに有望と言えるまでに至った。今後の二国間の包括的な経済連携協定(EPA)における投資に関する強力な条項は、間違いなく、こうした海外直接投資の移転を促進するだろう。
第3に、両国は近年、米国との関係とは独立に、三国間そして多国間の防衛協力への個々の参加を認める防衛協定に合意した。
第4に、日本政府により最近発行された二つの政策文書によって新機軸が打ち出された。すなわち2003年のODA大綱の改正では、さまざまな観点の中でも特に戦略的見地からの援助支出が求められている。また、2004年12月に防衛庁によって発行された防衛大綱では、初めて「国際的な平和協力活動」に関する文脈の中でシーレーンについて言及している。
これらは、ODAを、インドの港・海運インフラストラクチャー・造船所の整備に向けるユニークな機会を提供するものであり、その多くが商業的かつ軍事的な支援に連動することになる。インドが野心的な海上安全保障プログラムを推進し、印米間の海軍協力が急速な発展を遂げる中、海上輸送・海洋調査・海底探索・船舶積載力といった機能分野に向けられた戦略的ODAは、既に単独で最大のODA支出国となっている日本の貢献をより重点化させることになるだろう。
こうした戦略的提携は、日本の武器輸出原則と矛盾するものではない。 実際に今年始め、日本は、テロや海賊行為を取り締まるという限られた目的のために、ODA基金から3隻の監視船をインドネシア沿岸警備隊に提供した。この措置は、「武器輸出3原則」の例外として扱われた。
非致死性の軍事技術と産業・軍事両用技術に関する日印間の構造的な対話は、実現可能性は低いものの、第5の協力可能な領域をもたらした。安全と防衛能力に関する小泉首相の審議会 (荒木委員会)による2004年の最終報告書では、米国との共同軍事プロジェクトやミサイル防衛の認可に留まらず、長年堅持されてきた第3国に対する武器輸出原則の緩和に対する、ケース・バイ・ケースの検討を要求した。
インドの防衛産業基盤は未発達な状態であり、日本においては民需品生産に対する軍需品生産の比率が極めて低いことを考慮すれば、一度限りの冒険的事業は両国にとって有益であるかもしれない。
10年前に、前首相による特命レポート(樋口レポート)が、多国間の文脈において武器やサブシステムに関する共同研究開発を要請したことは注目に値するが、平和主義的感情が普及していたため国内の政治的牽引力を得られなかった。米印間の民間核協力協定が日本において不快感を持って受け取られることから推測されるように、そのような感情は、今日においても根強いものがある。



