「イギリス版食育」と難航するNHS(National Health Service)改革
日立総研 客員研究員(在ロンドン)
城野 敬子
城野 敬子
難航するNHS改革
イギリス国外からイギリスに引っ越してきた外国人の間で、引っ越し当初よく交わされるのが、「GP(General Practitioner)への登録は終わった?」という質問である。GPはいわばホームドクターであり、イギリスの国営保健サービス、NHS(National Health Service)の重要な部分を形成する。NHSは健康省(Department of Health)の管理の下、国の予算(税金)によって運営され、国民に原則無料で医療サービスを提供するシステムである。イギリスで体の不調を感じて、NHSで治療を受けようとする場合は、まずGPの診察を受け、GPを通じて必要な診療科や病院への紹介を受けることになっている。外国人であっても、永住目的で入国した者や1年以上イギリスに滞在する場合などは、居住地域のGPに登録してNHSに加入し、無料で診察を受けることができる*1ため、冒頭のような質問が交わされるわけである。
1948年に設立されすでに60年近い歴史を持つNHSは、その基本原則として、(1)支払い能力ではなく医療上のニーズに基づいてすべての人にユニバーサル・サービスを提供すること、(2)包括的な医療サービスを提供すること、(3)一人ひとりの患者や家族、介護者のニーズや好みに対応したサービスを提供することなどを掲げている。このように崇高な理念をうたうNHSではあるが、実際には、慢性的な予算不足と人員不足、それに起因する膨大な待機患者(2007年2月時点でイングランド地方だけで70万人以上の入院待機患者*2)、院内感染(2006 年4〜9月のMRSA感染報告件数がイングランド地方だけで3,000人以上*2)など深刻な問題を抱え、政府の悩みの種となっている。友人のイギリス人に尋ねても「手術を受けるのに2年間も待ったことがある」「院内感染が怖いからNHSの病院には行きたくない」など、出てくるのは散々な体験談や辛口のコメントばかりである。政府は、2000年に「NHSプラン(The NHS Plan)」*3という投資増強と改革に関する計画を発表し、推進してきたが、依然として問題は山積している。タイムズ紙(The Times)が2007年2月に行った医師約3,000人に対するアンケート*4でも、政府が予算を増加させた2002年以降もNHSには改善は見られないという回答が過半(56%)を占め、何らかの改善があったという意見は27%に過ぎなかった。
「イギリス版食育」に取り組む政府
NHS改革が難航する一方で、イギリスの高齢化は着実に進展している。1971年と2005年を比較すると、16歳以下の人口は25%から19%に減少したのに対して、65歳以上の人口は13%から16%に増加し、とりわけ85歳以上の人口が7%から12%に増加した。イギリス政府は、21世紀前半にかけては高齢化がさらに進むものと予測しており、*5高齢者の増加に伴い、医療費がさらに増大することが懸念される。政府の試算では、医療費負担は対GDP比で2004年の7%から2050年には8.9%まで上昇する見通しである*6。こうした中で、政府は医療費抑制策の一環として中高齢者の生活習慣病予防への取り組みを進める*7と同時に、さらに長期的な視点からいわば「イギリス版食育」に着手している。子供が悪い食習慣を身につけると成人後もそれが継続し生活習慣病にかかるリスクが高まるため、幼少時から健全な食習慣を身につけさせようというのがその狙いである。
NHSが破綻目前といわれ続ける中でずいぶん気の長い話のような気もするが、現在、イギリスでは子供の肥満問題が深刻化しており、生活習慣病予防、医療費抑制の観点からも放置しておけない状況になっている。イングランド地方では、2000年時点で、2歳から19歳のうち、男子の5人に1人、女子の4人に1人が「体重超過」となっている*8。また、男子の約5%、女子の約7%が「病的な肥満」であり*8、その大きな原因が食習慣であると考えられている。確かにイギリスでは、オーガニック(有機栽培)の農畜産物が定着し、健康志向が高まっているともいわれる一方で、食事内容に無頓着な人も多く、子供の食事の内容もはた目にも心配になるようなものが多い。レストランなどで用意されているお子様ランチは、冷凍のピザや、チキンナゲットかフィッシュフィンガー(白身魚の空揚げ)とフライドポテトが定番。小学生が放課後友人宅に遊びに行くときは、その友人宅で軽い夕食を取らせて帰らせるのが一般的だが、遊びに来る娘の友人達はほとんど野菜を口にしない。学校で友達のお弁当を見ている娘は「イギリスではチョコレートやポテトチップスもお昼ご飯なんだよ。いいなぁ、いいなぁ」と言い出した。
「イギリス版食育」の最近の動きとしては、(1)子供のいる家庭に照準を合わせた肥満防止運動、ヘルシー・リビング・イニシアチブ(Healthy Living Initiative)の開始(2007年3月)*9、(2)赤緑黄のわかりやすい信号方式での食品の主要成分表示の普及キャンペーンの展開(2007年1月以降テレビコマーシャルや雑誌広告を順次展開)*10、(3)ポテトチップスやチョコレートなどを給食および学校内から排除することなどの新基準導入(2006年9月)を含めた学校給食改革*11などが挙げられる。娘の通う私立小学校でも、「おやつに持参するものは果物か野菜に限る。スナック菓子の持参は禁止」「必要な時にいつでも水が飲めるように水筒を持参するように」などの指示が出るようになった。
国の制度改革と個人の意識・ライフスタイル変革
2007年3月、政府は、医療、教育など公共サービスに関する政策について長期的な視点から再検討を行った報告書(Building on progress: Public services)*12を発表した。この中では、今後の方針として、公共サービスを真に個人のニーズに即した(personalized)ものにしていくことや公共部門の独占を崩し民間委託をさらに進め、公共サービス提供者を多様化することなどの5点が示されているが、これら5つの方針のうちの一つとして、政府と個人のパートナーシップの下に、個人の権利と責任のバランスを取ることが挙げられている。これについて新聞各紙は「医療サービスを受ける代わりに運動をするなど、契約の関係に基づくこと*13」「個人が自分の健康により配慮することが求められるということ*14」などと報道している。イギリス政府がNHS改革と並行して進める「イギリス版食育」も、個人の意識とライフスタイルの変革を促すことで、医療サービスへの依存を少しでも減らそうとするものであり、ここで示された方針とベクトルを同じくするものである。2007年2月の本レポートで取り上げた環境問題と同様、困難な課題への対応には、国の制度改革と個人の意識とライフスタイルの変革の双方に取り組んでいくことが不可避であることの表れと言えよう。
参考文献
- イギリスの医療制度
- NHSファクトシート
- NHSプラン(The NHS Plan)
- NHS改革に関する医師に対するタイムズ紙によるアンケート結果
- イギリスの高齢化状況
- 公共サービスに関する政策レビュー(2007年1月)(PDF)
- イギリス政府ホームページDirectgovの50歳以上を対象としたコーナー
- イギリス人の健康状態(肥満の子供の割合)
-
ヘルシー・リビング・イニシアチブ(Healthy Living Initiative)に関するニュースリリース
ヘルシー・リビング・イニシアチブ(Healthy Living Initiative)の開始に先立つ調査研究(PDF) -
信号方式の食品の成分表示概要
信号方式の食品の成分表示の普及キャンペーン - 学校給食改革
- 公共サービスに関する政策レビュー(2007年3月)
- 公共サービスに関する政策レビュー(2007年3月)についてのタイムズ紙記事
- 公共サービスに関する政策レビュー(2007年3月)についてのインディペンデント紙記事
*上記のリンクは新規ウィンドウで開きます



