「子供達のための計画(Children’s Plan)」をめぐるイギリスの世論
日立総研 客員研究員(在ロンドン)
城野 敬子
城野 敬子
イギリスの小学校教育
子供の学校生活は親にとって最大の関心事の一つである。ロンドンでの娘の小学校生活を見ていると、「イギリスの小学校教育は日本とは違うなぁ」と感じる点がいくつかある。
まず、日本の教育の方が効果的だと感じるのは、算数。小学校3年生の娘の宿題を見ていると、これまで学習した内容とは脈略なく、突然に分数や小数の宿題が出て「なぜ突然こんな内容を?」と思うことがある。また「この図形の学習は昨年もやったはずなのに、同じことをなぜ今年も習うのだろう?」ということもあり、教えられる内容に段階的な流れがないように感じられる。日本国内ではさまざまな問題が指摘されているとはいえ、イギリスに比べれば、日本の小学校の算数教育は段階的で系統立っていると思う。
一方、こちらの小学校が情操教育に熱心なことには感心する。シェイクスピアの伝統ゆえか、授業に演劇(Drama)という科目があり自分たちで演劇を体験して学習するほか、毎学期、劇場に観劇にも出かける。歴史の授業では、「ローマの日(Roman Day)」「エジプトの日(Egyptian Day)」などと称して、学習している国や時代の衣装に先生も生徒も仮装して登校し、学校で当時の食事を楽しむこともある。もちろん、個々の学校の校風や教育方針によるところも大きいのだろうが、学校教育にもお国柄があるようでなかなか面白い。
イギリスの子供を取り巻く環境には問題が山積?
イギリスでは、サッチャー首相時代に、「国家カリキュラム」や「全国学力テスト」などの実施を規定した「1988年改革教育法」を施行し、大幅な教育制度改革を行ったのだそうだ*1。安倍前首相もそれを日本の教育再生のモデルとしていたのだと聞く*2。しかしながら、現在のイギリスの教育全般が国際的に必ずしも高く評価されているわけでもない。例えば、ユニセフ(UNICEF)が2007年2月に発表した、「富裕国における子供の幸福概観(An overview of child well-being in rich countries)」という調査*3では、子供の幸福を(1)物質的幸福、(2)健康安全、(3)教育面での幸福*4、(4)仲間や家族との関係、(5)行動とリスク、(6)主観的な幸福感という6つの側面から計測しているが、イギリスは、教育面での幸福の分野では21カ国*5中17位である。
そればかりか、物質的幸福18位、健康安全12位、仲間や家族との関係21位、行動とリスク21位、主観的な幸福感20位と、教育以外の項目でも低位となっており、総合ランキングではイギリスが21カ国中最下位にランク*6されている。この調査結果を見れば、イギリスの子供を取り巻く環境には問題が山積していると言わざるを得ない。
政府は「子供達のための計画」を発表
こうした中、2007年12月、政府はイギリスを子供が育つのに世界で一番良い場所にすることを目指した今後10年間の戦略として「子供達のための計画」を発表した*7。この計画に沿って最初の3年間で10億ポンドが投じられる予定である*8。この「子供達のための計画」は次のようなことを目指している。
- すべての家族、とりわけ幼い子供のいる家族への支援の改善
- 世界最高水準を学校で達成するための取り組みの推進
- すべての親が子供の学習に参加
- 子供に学校外でのより多様な活動を提供し、より多くの遊び場を提供
これらの目標を達成するための具体策として、次のような項目が挙がっている。
- 2億2,500万ポンドを投資して3,500の遊び場を改修、貧困地域に8〜13歳向けの遊び場を30ヶ所新設
- 経済的に困窮している家族には2歳児の保育を無償化
- 貧困家庭に対しては、家庭内の事故に応じて、1,800万ポンドを投資し家庭内の安全器具を設置
- 1,800万ポンドを投じて、教育上特別なニーズのある子供や障害者の学校教育をさらに支援するとともに、2,650万ポンドを投じて、学校から除外された子供の新たな教育方法を推進
- 長期的にはすべての教師が修士課程を修了することを目指した長期的な方策を推進
- 親と教師のより緊密な関係を志向。両親にとって主要なコンタクトポイントとしての役割を果たす個人的なチューターを一人ひとりの子供に指定
- アルコールや薬物乱用をはじめとする、若者の反社会的で危険な行動に対する対策の推進
政府は、この計画は全国の親の意見を聞いた上でまとめたもので、今後の良い変化の前触れとなり、親が子供の教育に関与するやり方を大幅に変革するものだと意気盛んである。
「ナニー・ステイト(Nanny State:乳母国家)」を嫌うイギリス人には不人気
今回の戦略のポイントは、政策の焦点を「教育」から「子供」に移したことと言われている*9。ブラウン首相就任に伴い2007年6月に行われた省庁の改正でも、教育問題を担当するのは「子供・学校・家族省(DCSF:Department for Children, Schools and Families)」となり、子供のおかれている環境の改善を目指す視点からの政策という方向性がすでに打ち出されていた*10が、「子供達のための計画」はこの方向性を具体化したものと言えよう。
しかし、マスメディアの報道を見る限りでは、今のところ、この戦略の有効性について懐疑的な意見が多い。この計画によって、これまで以上に初等教育に対する国家の介入が強まることに批判の声があるだけでなく、「教育」に代わって「子供」を戦略の軸に据えることで、教育の枠を超えて子供の生活全般に国家が介入することを警戒する声が強い。テレグラフ紙は「子供を育てるのは国家でなく家族(Families, not the state, raise children)」と題し、「残念ながら(この計画に示された)広範な問題に対する解答は、常に政府の介入を伴っているように思われる。子供・学校・家族大臣は、政府は『すべての子供と若者が幸せに健康に成長して成功できるようにコミットする』と表明したが、彼は、こんな約束をできる政府があると信じているわけではないはずだ。個人的な幸福を保証することは政治家や行政の行うことではない。」とする社説を掲載した*11。タイムズ紙にも、「子供達のための戦略」に挙がっている「経済的に困窮している家族には2歳児の保育を無償化」という案に対し、子供に早期教育の機会を与えても、それ以前に、親を救済しなければその効果は持続せず、子供の教育は長期的に改善されないとしている*12。また、「貧困状況にある子供をそこから救済することの方が、子供をめぐるさまざまな問題解決には有効ではないか。」という意見を紹介している*13。また、エコノミスト誌は「教育にスポットライトが当たらなくなることで、学習が遅れている子供達を助けるために必要な焦点がぼやけてしまうリスクがある。」という大学教授の意見を引用し、「子供達のためにすべてのことをやってやろうとする計画が、結局何もうまくいかないままに終わるのではないかということが最大の懸念事項である。」としている*14。
イギリスには、個人生活への国家の介入を「ナニー・ステイト」と呼んで嫌う伝統があるとイギリス人の友人から聞いたが、今回の「子供達のための計画」を政府が言うような子供を幸福にする魔法の杖ではなく、「ナニー・ステイト」と受け止めているイギリス人が多いということだろう。
参考文献、注釈
- 福田誠治「競争しても学力行き止まり イギリス教育の失敗とフィンランドの成功」朝日新聞社 2007年10月25日 59ページ
- 福田誠治「競争しても学力行き止まり イギリス教育の失敗とフィンランドの成功」朝日新聞社 2007年10月25日 5ページ
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UNICEF「富裕国における子供の幸福概観(An overview of child well-being in rich countries)」に関するニュースリリース(2007年2月)(PDF)
UNICEF「富裕国における子供の幸福概観(An overview of child well-being in rich countries) - 教育面での幸福は、(1)15才時点での学業達成度、(2)15〜19才で学業を継続している割合、(3)雇用への移行がうまくいっているか、という点から計測
- 21カ国とは、オランダ、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、スペイン、スイス、ノルウェー、イタリア、アイルランド、ベルギー、ドイツ、カナダ、ギリシャ、ポーランド、チェコ、フランス、ポルトガル、オーストリア、ハンガリー、米国、イギリス
- 6つの項目のランキングの平均値が、イギリスは18.2位であり、これは21カ国のうちで最も低い
- 「子供達のための計画」発表にあたっての政府ニュースリリース(2007年12月11日)
- 「子供達のための計画」発表にあたっての子供・学校・家族省ニュースリリース(2007年12月11日)
- タイムズ紙記事(2007年12月10日)
- 省庁再編についての政府ニュースリリース(2007年6月28日)
- テレグラフ紙(2007年12月12日)
- タイムズ紙記事(2007年12月12日)
- タイムズ紙記事(2007年12月10日)
- エコノミスト誌記事(2007年12月13日)
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