第3回:青い空と白い雲
5月に、松山を訪ねた。第27回日中経済知識交流会に出席するためである。この交流会は、1981年に当時の谷牧副総理、大来佐武郎対外経済関係担当政府代表を中心に構想された。官・民・学それに地方自治体の参加を得て、世界情勢、日中関係、中国の体制改革の課題と展望をしようとの目的を持っている。中国と日本の主要都市において交互に開催する点に特徴があり、以来27年間、中国の政策転換、特に対外開放政策を決めるうえで役割を果たしてきた。経済開発特区のアイデア、市場主義社会経済の構想つくりにも貢献した。
27年間一年として途切れることがなく続いてきたところに、この交流会の価値と苦労がある。『率直な意見交換を旨とする』との基本理念の志が高かったこともあるが、この間の日中間の課題と摩擦もまた多かった。天安門事件、靖国(やすくに)をめぐる衝突、を頂点として一年として楽な議論はなかったと言ってよいが、これらについても、率直な議論、意見交換が行われた。ここで議論の内容に立ち入ることはしない。しかしながら、乗り越えることが容易ではない困難な状況であればあるほど、両者とも率直に語ったのである。私も、その一員として反発をし、反発をされた記憶が多い。
27回目の会議は、道後温泉で開かれた。昨年秋の安倍総理訪中の成果もあり落ち着いた雰囲気で始まった。副団長がこう言われた。「今日、飛行機に乗って初めて松山に来ました。飛行機が松山空港に下降するとき、瀬戸内海とそこに浮かぶいくつもの小さな島が見えました。そのとき、私たちが今ほしいものは何かが分かったように思いました。今ほしいものは、青い空と白い雲です。松山への機中から見えた青い瀬戸内海と空、そこに浮かぶ白い雲です。中国は、この数年日本の協力もあって10%台の成長をしてきました。中国人民は努力をし、よりよい暮らしを得ることもできました。しかし、同時に失ったものも多かったのかもしれません。飛行機から見た、あの青い空と白い雲を取り戻すことができるなら、経済の成長の早さを少し考慮にすることも考えなければなりません。」と語ったのである。
一瞬、私は虚(きょ)をつかれた。中国の政策担当者から、これほど謙虚で安らぎの感じられる発言を聞いたことは少なかったからである。また、私自身、副団長の話を聞くまで空や雲のことなど思ってもみなかったからである。そして、私自身の記憶から、入社当時よく乗った横須賀線が京浜工業地帯に差し掛かるときに一瞬感じた公害のにおいや、スモッグのたち込めた東京の街のことが、よみがえってきた。当時の工場新聞に、カリフォルニアでの社費留学から帰国するエンジニアが「カリフォルニアの空に比べると東京の空は町が見えないほど汚れていて思わず、下降する飛行機から眼をそらした」と慨嘆していた文章も記憶に残っている。
この27年間、中国の空はどのように変わったのであろうか。空も雲も仰ぐことなく、ひたすら中国国土の建設、中国人民の暮らしの改善と世界水準への向上を図ってきたのが、副団長たち中国の官僚や企業経営者の27年間であったのであろう。それはちょうど、戦後の復興期そして高度成長期の日本に重なる。
その後、日本においては青い空を取り戻す地道な努力がなされてきた。例えば、1965年、北九州市では「青空がほしい」のスローガンの下に地元婦人会の母親たちが降下ばいじんを測定する調査や、8ミリ映画を制作し公害問題を訴える活動に力を注いだ。これが、市民、企業、研究者、行政を動かし、20年の歳月と約8,000億円の費用をかけて公害を克服し青い空を取り戻したのである。このことを私に教えてくれたのは1972年に設立された日立環境財団のスタッフである。財団は昨年北九州市とシンポジウムを持ち、この努力を世に広め、わが国の環境保護への意識の定着を喚起したのであった。
日中環境協力に関する率直な議論の翌日、松山をたった羽田行の窓からあらためて見た空と雲は青く白かった。これが、『当たり前』のものではなく、努力がもたらした『有り難い価値』であることを率直に認識し、これから中国が進もうとする道の方向に期待を寄せるとともに、その困難さに思いをはせた。
高校生のころ好きだった山村暮鳥の詩のフレーズが浮かんだ。「おおい、雲よ、いつからそんなに白いんだ」。もとより、雲は答えることなく、ただプカリプカリ青い空に浮いていた。



