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第12回:沢庵石

冬の澄み切った青空に誘われて、品川を5分ほど歩くと、御殿山の頂上に達する。ホテルの敷地内であるが、そこには立て札があり、御殿山の由来が「家康の建てた品川御殿」にある旨が書かれている。1702年に焼失するまで、徳川家の鷹狩りの休息所であり大名の接見所であった。昼なお暗い木々の茂みは、その時代をほうふつとさせる。三代将軍家光は、沢庵禅師に帰依し、この御殿山のふもとに東海禅寺を建立する。寛永16年(1639)のことである。彼は、尊敬する沢庵和尚をここに住まわせ、時に東海禅寺を訪れ、または、和尚を品川御殿に招き、治世のヒントを得た。


沢庵和尚は、沢庵漬けの発明者として知られるが、それに至る彼の人生には波乱が多い。和尚は1609年、37歳にして京都大徳寺の第153世の住持(寺の長)となるが、三日で退院する。元来雲水の身である自分は、大徳寺という大刹の住持の生活はにあわないとの理由である。その後、多くの大名から寺の住持をという話はあったが、ことごとくこれを辞退した。また、多額の布施をうけても、自分個人のためには使わず、鐘楼・書院の建立のみならず、水害からの復興のために寺財を投じたとのことである。沢庵56歳の時、当時反目しあっていた天皇家対幕府の争いの象徴的出来事である紫衣事件に巻き込まれ、幕府に反抗したとして、奥州出羽に流される。しかしながら沢庵は「宗門のことにまっすぐなことを申して、御意に違い、出羽の国まで流されしともうすこと・・・満足に候」と手紙にしたため、その心は晴れ晴れとしていたとのことである。5年後、堀丹後守直寄のとりなしにより沢庵は免罪となり、京都に戻る。そして、柳生宗矩の推挙により家光と面会することとなる。その時、家光は30歳であり、将軍となってから11年経っており、沢庵は、61歳であった。


沢庵和尚と家光の付き合いはどのようなものであったか?和尚が東海禅寺に住持してから7年間に将軍のお成りは、75回であったということであるから、相当緊密な付き合いを交わしたといえよう。


数々のエピソードのうち、問答河岸の話をしよう。家光が東海禅寺より江戸城に帰ろうとする際、沢庵和尚はいつも品川の海岸に立って、家光を見送った。ある日、家光が乗船に臨んで、「海近くして、如何が是れ東海寺と」と問うと、和尚はすぐさま「大軍を指揮して将軍と言うが如し」と返したという。30歳違いの将軍と和尚の頓知問答には信頼感と暖かさがこもる。その問答河岸は、御殿山の頂上から15分ほど東に坂を下った旧東海道筋にあり、寿司屋の角に、ここは問答河岸という立て札が立つ。


なにより、沢庵漬けの由来を忘れてはなるまい。「和尚、余は近頃何を食しても味がなくて困るが、何か口にあう美味でもあったら、余にご馳走してくれぬか」とぼやく家光を、和尚は「それはいと易きこと。愚僧が天下にまたとなき美味なるものを差し上げます。ただし、何ごとがあっても中座されないならば」との条件付で、自分の茶室に招く。時は1639年12月下旬、雪の降りしきる中、午前十時に茶室を訪れた家光に、薄茶一杯と菓子ひとつ出ただけで、待てど暮らせど食事は出ない。午後三時になり、待つにも限度が近いころに、和尚は静々と膳を運んでくる。その膳にはふた切れの黄色いものと、椀がのっている。椀には飯がはいっており湯につけてある。とにかく腹が減ってたまらぬ家光とその従者は、その黄色いものと湯漬けをかきこむ。その黄色いものがあまりにもおいしいので、おかわりをし、和尚にこれは何かと尋ねる。和尚は「大根のぬか漬けでございます。」といい「上様は、征夷大将軍であるからぜいたくなもので口がおごってしまわれている。今後、美味しいものを召し上がりたいなら、ぜいたくなものを選ぶのでなく、空腹時をお選びくだされ」と諭した。粗食に小言ではたまらぬと騒ぐ従者をたしなめ、家光は深く反省し、こう述べる。「権現様(家康)は2日間なにも口にせずに戦われた。自分はその祖父様の功労で将軍になったのにぜいたくなことを言っている」と。翌日、和尚を呼び、「昨日の漬物は軍用になる」として、一般にもその漬け方を教えさせ、戦に蓄えさせた。ここから大根のぬか漬けを沢庵漬けというようになったとのことである。


このように、沢庵和尚は、質素な生活を好み、豪しゃな政を好まず、自分が死んでも墓を建てたり、経を読んだりせずに、普通の日々と同様に過ごせと門人に言い渡して、1645年亡くなる。門人たちは、この遺言に従い、和尚を東海禅寺敷地内の西北の丘に葬り、松を一本植えた。今では、その松の下に大きな石が置いてあり、沢庵和尚の墓となっている。大きく、丸く、質実な、自然石である。


大きな敷地を持っていた東海禅寺と御殿山は、その後、鉄道線路(現在のJRと京浜急行)および、第一京浜国道や環状六号線の建設はあったが、往時の姿をとどめている。もし、あなたが東京駅から南に向かってJRに乗れば、品川駅を少し過ぎたところで、山手線と京浜東北線が別れるところに、小さな茂みを見つけることができるだろう。ちらりと、沢庵石が見えるかもしれない。

  • * 参考文献:沢庵禅師逸話選(禅文化研究所、平成10年刊)

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