第14回:例幣使街道の賢人
久しぶりに会った証券会社に勤務する友人は、彼が卒業した小学校に日立の創業者小平さんの図書館があったとの話を始めた。合戦場小学校に学んだ6年間で、とりわけ、小平記念図書館の記憶が残っているという。寡聞にして、その存在を知らなかった私は、友人の母校である栃木県都賀町立合戦場小学校を訪問した。
明治6年11月25日呱々の声をあげた同校は、135年の歴史と伝統を誇り、優れた卒業生を輩出されている。「創立130周年にあたり」記念刊行物において、谷田貝学校長は特に著名な卒業生として、日立製作所創業者である、小平浪平翁を挙げている。
「古い歴史と伝統のある合戦場小学校は、学者、教育者、企業経営者、政治家、芸術の分野に多くの卒業生を輩出しています。特に著名な方は、小平浪平翁である。明治13年6月合戦場小学校入学、同21年3月栃木高等小学校を卒業し、上京後東京英語学校に入学した。彼はよく勉学に励み、同24年第一高等学校に入学、努力を重ね同29年第一高等学校を卒業。その後、国家・社会への奉仕を優先的にという考えから、日本の電機産業を背負って立つ気概を持たれ、一度目標を確立するや、万難を排して、その達成にまい進された。言うまでもなく、彼は、日立製作所の創業者でもある。日立製作所栃木工場15周年を記念して、母校である本校に後輩児童たちの学業の躍進と、将来有為な人間になり社会に役立つことを期待して、昭和35年11月15日佳き日を選んで、起工式を行い、たくさんの費用をかけて建築なされ、同工場より寄贈されたのが小平記念図書館である。それ以来児童たちの図書館での学習は、毎日におよび、PTAの会議、地域の諸行事には大切な場として有意義に活用させていただきました。地域の人々は、愛着を覚え、地域教育振興に大きく貢献されました。」(「創立130周年にあたり」:谷田貝学校長)平成15年11月22日。
合戦場小学校は東西に長く二棟木造平屋造りの校舎で、西側に小平記念図書館があり、PTAの行事などに便利に利用されていたが、新校舎建築(昭和55年:1980年)に伴い、雨漏りを理由に取り壊された。しかし、小平翁をしのぶ資料、写真などは、現在同校の三階の一室があてられ保管展示されている。友人は私と同年齢のベビーブーマであるが、彼が小学校5年生のころに建設された小平記念図書館での、記念行事、授業などをはっきり記憶にとどめている。
合戦場小学校にみられる小平翁の教育に対する基本的な姿勢は、日立製作所の基礎を形成した理念でもある。その理念を代表する教育機関が「徒弟養成所」である。
昭和36年刊「日立工場50年史」には徒弟養成所について次のごとく記述されている。「当社創業において、新しい事業開発の礎を築くため、小平はじめ歴代の幹部が最も意を用い、力を注いだのは、製品技術の開拓とともに人材の養成に対する配慮であった。当時揺籃期にあったわが国電機業界においては、製作技術を習得した職工は極めて少なく、しかもかかる職工を獲得することは、極めて困難な情勢にあった。小平はつとに「事業の発展は人にあり」とし、有能な日立人を育成し、一つは社業発展の基礎を固めるとともに、二つにはわが国産業の興隆、社会福祉の増進に貢献しうる産業人の養成を企画して、明治43年(1910年)ここに徒弟養成所を創設した。・・・徒弟養成所は、当社における教育制度発祥の母体として意義深く、また、わが国の産業史上を飾る画期的な教育機関であった」。明治43年は、日立製作所の創業年であり、小平翁は創業と期を一にして日立の次代を担う人材の養成に着手したのであった。徒弟養成所はその後日立工業専修学校に発展し、同校は2010年に開校100年を迎える。
さて、小平翁の生家は、往時のままに合戦場小学校の近くにあり、例幣使街道(れいへいしかいどう)に面している。1617年、徳川家康は死後、日光に改葬され、その後、1645年、京都の朝廷から日光東照宮へ勅使(日光例幣使)が遣わされた。この道を例幣使街道と言う。中山道の倉賀野宿(高崎市)を起点として、日光坊中に至る道のりは、今市を経由するあたりは、15kmにわたる杉並木が続いている。400年近い歴史を有する街道である。倉加野宿から数えて、14番目が小平翁の生家のある合戦場宿である。その日光寄り一つ前に栃木宿がある。現存する蔵造りの建物が当時の繁栄をしのばせる宿場である。
栃木宿には、例幣使街道に面して山本有三記念館がある。山本翁は、「路傍の石」、「真実一路」などの名作を通じて、私たちの世代の人格形成に影響を与えた作家である。最近脚光を浴びた作品が「米百俵」である。小泉元総理が、政権の初期に新しい国創りを目指して、「米百俵」の教えをとりあげた。「国が起こるのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と、長岡藩大参事小林虎三郎は、戊辰戦争で疲弊した長岡藩への他藩からの救援米の米百俵を換金のうえ、学校設立に投じたのである。「育英こそが、百年の大計である」と説いたのだ。
小平翁は、明治21年、山本翁は、同35年に栃木高等小学校を卒業された、いわば同窓生である。もちろん、同期間に学び舎を同じくしたとは思われない。今となっては、二人の賢人の友誼は確認の術もない。しかし、小平記念図書館、徒弟養成所、米百俵、に共通する、人間への愛情と信頼、人材養成への執念、人物への渇望、についての限りない情熱には相通じるものがある。産業界と文学界の賢人二人が、例幣使街道を往来しつつ、互いの情熱を啓発していたのではないかと、想像を巡らせたのであった。
- 参考文献:
- 写真で見る日専校85年史:株式会社日立製作所/日立工業専修学校(96年7月)
- 都賀町立合戦場小学校創立130周年記念誌:都賀町立合戦場小学校(03年11月)





