社長 嶋田惠一のコラム
現代世界において、自由と民主主義は圧倒的に多くの国で共有されている価値観でしょう。一国のリーダーで、この共通の価値観を時に犠牲にしてきたにもかかわらず、世界から尊敬を集めた政治家がいます。今年3月に91歳で亡くなったシンガポールの元首相リー・クアンユーです。英国のキャメロン首相は「現代世界で最高の政治家」、フランスのオランド大統領は「先見性に満ち、目覚ましい発展を実現した指導者」、米国のクリントン元大統領は「東南アジアの全ての人々の生活を向上させ、生活を豊かにするのに大変な貢献」、とその業績を称賛しています。
世界経済の成長エンジンと呼ばれて久しいアジアですが、個別に見れば先進国の経済水準に到達する前に、既に労働力人口の減少が始まった国もあります。また、国内の政治対立によって、本来進められるべき政策がなかなか実現しない国もあります。そうした中で、シンガポールは一人当たりGDPで日本を超え、アジアの中で群を抜く繁栄を実現しました。
政治家リー・クアンユーの評価を語る際には、今年で50周年を迎えるシンガポールの建国まで立ち返ることが不可欠です。当時からの彼の発言を追っていくと、政治家というより、むしろ経営者のような徹底した合理主義を感じさせます。
第二次大戦後の1957年、ともにかつて英国の植民地であった隣国マレーシアが英国から独立し、シンガポールは翌1958年に英連邦内の自治州となります。そして、1959年の自治政府選出のための総選挙で、当時結党わずか5年で現在もシンガポールの第一党である人民行動党(People’s Action Party, PAP)が圧勝し、リー・クアンユーは35歳の若さで首相に就任します。水も食糧もマレーシアに依存しなければならないシンガポールの単独での生存は困難と考えたリーは、1963年マレーシアとの合併を実現します。しかしわずか2年後の1965年には、マレーシア中央政府とシンガポール州政府の対立、マレー人と華人の対立が抜き差しならない状況となり、マレーシア連邦から追い出される形で独立を強いられます。
独立時のシンガポールは、水、食糧に加え日用品の大半を依存するマレーシアとの関係が一触即発の緊張状態にあり、もうひとつの隣国インドネシアのスカルノ大統領は1963年からシンガポールとの貿易禁止を続けていました。建国とともに存亡の危機に直面する中で、リーとPAPが掲げたスローガンは「生存のための政治」でした。リーは「発展のためには民主主義よりも規律が必要」と国民に訴えます。「政府は国家の生存のために悪魔とでも貿易して国民の生活を守らなくてはならない」、それが当時の現実だったのでしょう。
1960年代後半以降、リーとPAPはシンガポールがひとつの企業体であるかのような徹底したプラグマティズムに立って経済発展の途(みち)を突き進んでいきます。その過程においては、国民の権利、労働者の権利よりも経済発展の条件整備、外国企業誘致のための環境整備が優先されることも頻繁にありました。
プラグマティズムの基盤は、限られた人的資源を最大限に活かすためのエリート教育にありました。リー自身もシンガポールの知識階層出身で、若き日に英国ケンブリッジ大学へ留学していますが、PAPの幹部や政府機関で働く官僚のほとんどは、小学校から始まる選別を勝ち抜き、大統領特別奨学金などによる欧米一流大学への留学を経験したエリートたちによって占められています。「二流、三流の人々が残り、一流の人たちが出て行って政府に対抗するのではいけない。それは国家運営の方法としては愚かなやり方」、という考えがその基盤となっていたのでしょう。
一方で、リーはエリートである国家の指導層に高い倫理性を求めました。これは多くの発展途上国と決定的に異なるところであり、長年国民の権利が制限されてきたにもかかわらず、社会の安定が保たれた大きな理由でもあります。リーは首相就任時に兄弟を呼んで、「家族から首相がでれば、何か特権やもうけを期待するかもしれない。しかし絶対にそんなことはない。これからは兄弟だと思うな」と語ったといいます。一方で、「私はシンガポールを代表しているのだから、国民を欺いた人間はぶちのめす」として、汚職行為調査局に強力な権限を与えました。
リーは1990年に首相を退きますが、その後も上級相、顧問相として残り、さらに2004年にはリーの長男のリー・シェンロンが第3代首相に就任します。「リー王朝」、「明るい北朝鮮」などのやゆする言葉には一切耳を貸さず、「必要だから」「優秀だから」その地位にいるのだという主張を貫いてきました。長男もまた選別を勝ち抜き、ケンブリッジ大学、ハーバード大学で学んだトップエリートであるからです。シンガポールの新たな観光シンボルとなったマリーナベイ・サンズ、その地下には単独では世界最大のカジノがあります。カジノ建設を推進しようとした息子率いる政府に対し、顧問相だった父は当初反対したとされます。しかし、最後は息子とその同世代のエリートたちが構成する政府の判断を尊重します。
先進国となり、安定と繁栄を手に入れたシンガポールでは、建国時のような存亡の危機はもはや歴史の中の事象となり、国民の要求は多様化、細分化しています。2011年の総選挙でPAPは史上最低となる81議席に落ち込み、野党が6議席を獲得、結果を受けて、リーは全ての役職を退任して、政界から引退します。この選挙では、シンガポールのメインストリートであるオーチャードロードが豪雨の際に一部で水があふれたことが選挙結果に影響したとも言われています。
数年前までの日本も含めて、現在先進国の中には、政権交代が続いたり、議会で野党が多数を占め、政策決定に長い時間を要する国が多くみられます。「民主主義は最悪の政治形態である。これまで試されたすべての形態を別にすれば」、とは英国の元首相チャーチルの言葉ですが、シンガポールの将来を今後もエリート層がリードしていくのか、たとえ時間とコストがかかってもより幅広い層が参加して議論する政治形態に変わっていくのか、早ければ今年中にも予想されるリー・クアンユー亡き後初となる総選挙の結果が注目されます。
(参考文献)
黄彬華、呉俊剛(田中恭子訳) 「シンガポールの政治哲学(上・下)−リー・クアンユー首相演説集−」 井村文化事業社、1988年
岩崎育夫「リー・クアンユー 西洋とアジアのはざまで」 岩波書店、1996年
グラハム・アリソン/ロバート・D・ブラックウィル/アリ・ウィン(倉田真木訳) 「リー・クアンユー、世界を語る」