社長 嶋田惠一のコラム
最近、国際機関で活躍されている日本人の方にあいついでお話をうかがう機会がありました。「さまざまな国の方々と日々一緒にお仕事をされる中で一番苦労されることは何ですか」とお尋ねすると、「なかなか、『あ・うん』の呼吸というわけにはいかなくて」とのこと。
日本人には、相手との距離感をどのようにとるか、を考える時に、相手の意を「察する」という文化があります。言葉ではっきりと言わなくても、あいまいなままで、互いの心の内を察しようとします。「あ・うんの呼吸」に限らず、「以心伝心」、「一を聞いて十を知る」、「不言実行」など、こうした文化的伝統を象徴する言葉は日本語の中に数多くあります。断定的な言い回しを避け、言葉で明瞭に表現するよりも相手の気持ちを気遣いながら調和を保とうとする無意識の感覚が働いているように感じます。
かつて仕事でおつきあいしたある方は、誰もが認める頭脳明晰(めいせき)な人物だったのですが、話の内容がなぜかわかりにくい。もちろん日本語で話されるのですが、会話が終わって、あらためて考えてみると、さてさて結局今の話は何だったのか、何を頼まれたのかよくわからない。「そらそうだよ」、「そういうことよ」、「わかるよな」、といった表現で迫ってくるので、わからないのはもしかしたらこちらの理解力が足りないのかと思ってしまうのですが、他の人に聞いてもやはり私と同様にわからないという。一方で、この方は、これまた誰もが認める英語の達人。不思議なことに英語で話を聞くと、論理明快で、何を求めているのかも大変よくわかるのです。これもまた日本語のあいまいさが影響していたのでしょう。
日本語では、主語を省いたり、あえてぼかしたりすることによって、誰の意見なのか明確にすることを避けることもよくあります。自分の意見を権威ある人物や言い回しを借用することによって間接的に表現したりもします。日本で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成は、日本語のあいまいさを「余情」という言葉で表現したそうです。川端康成の代表作「雪国」は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」、という有名な書き出しで始まります。原作では主語があいまいであるのに対し、英語版では、“The train came out of the long tunnel into the snow country”と訳されており、The trainが明確な主語になっています。
英語では論理を大切にした直接的な表現が多用されます。母国語としてではなく英語を使う人の数は世界では圧倒的に多いでしょう。異なる民族、異なる文化の人々に対して自らの主張をもって対峙(たいじ)するための手段として英語という言語が使われてきた長い歴史も影響しているのかもしれません。かつて、米国のMIT(マサチューセッツ工科大学)で英語を使うことにまったく不自由のない日本人が、同じテーマについて日本語と英語で議論し、結論を出す実験を行ったところ、日本語の議論は、英語の2倍以上の時間がかかったそうです。また、結論も異なるものになったそうです。
そもそも日本社会では、明確な結論を出すよりも、参加者間の予定調和を前提にしているところがあります。積極的に予定調和を壊そうとすると摩擦が起こりがちです。かつてテレビ朝日の人気報道番組「ニュースステーション」のキャスターだった久米宏さんは、ニュースの最後によく使われる「今後のなりゆきが注目されます」という表現が大嫌いで、ほとんど使わなかったそうです。業界用語で「なり注」と呼ぶのだそうですが、ニュース原稿の最後に使うと、何となく視聴者もわかったような気になってしまいます。しかし、よく考えてみると、「今後のなりゆきが注目されます」は、主語も実際に何をするのかもはっきりせず、ほとんど実質的意味がないことがわかります。久米さんは、そうした予定調和を壊し、視聴者に自らの思いや感じたことを直接的な表現で伝えようとしたため、時に番組中のコメントが物議を醸したこともありました。
シンクタンクの仕事では、多くの研究成果が報告書という形でまとめられます。そこでは当然のことながら読み手に報告書の主張や提言がきちんと伝わるようロジックを明確にし、わかりやすく表現することが不可欠です。日立総研では報告書に、「今後の動向が注目される」、「今後の状況を注視する必要がある」、という類いの表現を使うことを原則禁止しています。こうした表現を使うと「なり注」と同様に誰が何をすべきか、というシンクタンクの報告書において最も重要な部分がぬけおちてしまうからです。それは核心に迫ることを放棄し、対応策の検討にいたる前に思考停止におちいることを意味します。いくら使用禁止にしても、少し油断すると、ついついこれらの表現が使われてしまう傾向があります。報告書の核心部分をごまかすには実に便利な麻薬のような表現ということでもあるのでしょう。
ひとつに決めつけるのではなく、多義的で余情を残すあいまいさが、日本の美の伝統を象徴しているところもあります。こうした文化的伝統は大切にしつつ、国際化が進むビジネスの世界では、摩擦をおそれず明確な表現でロジックの勝負を挑む文化を両立させることが求められています。
(参考文献)
大江健三郎「あいまいな日本の私」岩波書店、1995年
呉 善花「日本の曖昧力」PHP研究所、2009年
川端康成「雪国」角川文庫、1956年
Yasunari Kawabata, Translated by Edward G. Seidensticker(2011),
Snow Country, Penguin Books