社長 嶋田惠一のコラム
喜劇王チャーリー・チャップリンは、人生の機微に富んだ数多くの名言を残しています。その中のひとつに、「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」(Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot)、という映画人らしい表現があります。同じ出来事でも、個人にとってはその瞬間での捉え方と、長い人生の中で振り返った時の意味合いは大きく異なる場合があります。
大統領選で“Make America Great Again”を掲げ、雇用を米国に取り戻す、メキシコとの国境に壁を建設する、と主張したドナルド・トランプ氏が、長年世界の自由貿易の流れを主導してきた米国の新大統領に就任しました。
1980年代から本格化したグローバリゼーションの進展によって、世界では多くの人々が貧困から脱し、中国をはじめ急成長を遂げた新興国も数多くあります。米国もまた世界中から資金と人材を集め、また新たに台頭した新興国が米国企業の投資先であり有望市場になることによって、大きな経済的利益を享受してきました。その間、米国に限らず先進国では、生産の海外移転などによって不利益を被る人もいましたが、経済全体としてはより高付加価値の産業構造に転換するなどによる利益の方が大きかったはずです。
しかし、ある日自分の勤めていた工場が中国、メキシコへ移転し職を失えば、当事者にとっては「悲劇」以外の何ものでもありません。「あなたの仕事はもはや新興国に移って米国にはなくなってしまいます。もっと高付加価値の仕事を探して幸せになってください」、と言われても笑えない「喜劇」のせりふにしか聞こえないでしょう。
米国で過去8年間政権を担ってきた民主党は、本来労働組合の支持の高い政党ですが、今回の大統領選では支持基盤のミシガン、オハイオなどラストベルト(さび付いた工業地帯)と呼ばれる、かつて繁栄しながら生産の海外移転などにより衰退した州でも敗れました。米国の労働者が直面した「悲劇」に対して政治があまりに不作為であったことは事実ですが、重要なことはたとえ時間はかかるとしても、「悲劇」の真の原因を見極めて対策することです。
グローバリゼーションが本格化した1982年から金融危機前の2007年までの25年間で世界の貿易量はGDPの伸び率の2倍のペースで拡大しました。しかし、金融危機が終わった2011年以降世界の貿易量の伸びは年率わずか2.5%の低水準にとどまっています*1。金融危機前の25年間は米国が主導して進めたNAFTA、GATTウルグアイラウンド、WTOなどの一連の自由化政策が市場を拡大し、貿易コストを押し下げ、世界経済の成長を加速させましたが、金融危機後はグローバリゼーションは明らかに勢いを失っています。2010年以降、G20各国において、政府調達品の自国調達など外国製品、サービスへの差別的な措置が毎年300から400件のペースで導入されています*2。世界最高水準の貿易、投資の自由化をめざしたTPPも発効のめどが立たなくなりました。
米国経済の成長は過去数十年にわたって貿易の拡大とともに加速してきました。貿易の拡大は競争を通じて生産性の向上と効率化につながり、米国経済を強くしてきました。米国はイノベーションの創出力においても依然として圧倒的優位にあり、その中核的役割を果たしているのは、西海岸のシリコンバレーです。シリコンバレーにおける新たな起業の半分以上は移民もしくは移民2世によって行われています。人材においても米国はグローバリゼーションの恩恵を世界で最も享受している国です。グローバリゼーションの扉を開き続け、改革とイノベーションに取り組んできたことこそが、米国の繁栄をもたらしてきたのです。
目の前で「悲劇」に直面している人に、グローバリゼーションのメリットをいくら説いたところで何の慰めにも解決にもなりません。ワシントンの政治家も第一線の経済学者も雇用や格差問題の深刻さに対し理解と対処が十分ではなかった、と言わざるをえません。一方で、関税引き上げなど貿易に障壁を高めれば、一時的に雇用が増えたとしても、いずれ経済は停滞してしまいます。メキシコ国境に高い壁を設け、外国製品に高い関税をかけ、自らの改革をおこたることは、たとえ数十年後に振り返っても現在の「悲劇」を「喜劇」に変えることはありません。
チャップリンはこんな言葉も残しています。「私たちは互いに助け合いたいと思っている。人間とはそういうものだ。相手の不幸ではなく、お互いの幸福によって生きたいのだ」(We all want to help one another. Human beings are like that. We want to live by each other's happiness, not by each other's misery.)