社長 溝口健一郎のコラム
台湾夜市の魅力はその混沌にある。肉まんも唐揚げも細麺もカキオムレツもマンゴーかき氷も、食べ物屋だけでなく雑貨屋もゲーム場も順不同に並んでいる。店と道路の区別はつかない。客と店員の区別さえつかない。きらめくネオンで時間すらわからなくなる。そんな空間を、老若男女、様々な国の人々が押し合いへし合いながら楽しんでいる。この自由な空気はなかなか他では味わえない。台湾・政治大学選挙研究センターによる最新の調査によると、台湾の人々のうち、自身を「台湾人」と見なしている人の割合は64%に達し、30%が「台湾人であり中国人である」と考え、2%だけが自身を「中国人」と見なしている。夜市の自由と混沌が台湾人のアイデンティティ強化に大きく貢献しているという理論を提唱したい。
台湾の人口は約2,300万人であり、1人当たりGDPは32,300ドルと日本にほぼ並ぶ。2023年の経済成長率は約1.4%にとどまったが、2024年は4%近くに高まる見通しである。台湾経済は電子部品の製造・輸出をけん引役として安定した成長を続けている。今年の総統選挙では野党分裂の助けもあって、与党民進党が勝利し、台湾で総統の直接選挙が始まった1996年以来初めて同じ政党が3期続けて政権を担うこととなった。頼清徳新総統は、5月20日の就任演説において、「4つの堅持」として、①自由で民主的な憲政体制の堅持、②台湾と中国が互いに隷属しないことの堅持、③主権の侵犯と併呑(へいどん)を許さないことの堅持、④台湾の前途は全ての台湾人民の意思に従うことの堅持、を強調した。台湾は中国との統一を志向しないということを前政権以上に明確に発信したと言える。
半導体のサプライチェーンにおいて現在台湾は世界の中心となっている。世界の半導体の受託生産規模は今年約1,300億ドル以上に達すると見込まれるが、台湾企業が約70%を占める。その中で圧倒的トップを走るのが、モリス・チャンが創造したファウンドリのビジネスモデルで躍進したTSMC(台湾積体電路製造)である。TSMCの時価総額は約110兆円に達する一方で、台湾企業の時価総額2位となる鴻海は約10兆円にとどまることからも、TSMCの存在が抜きん出ていることがわかる。TSMCの工場がストップするとアップルのiPhoneもNVIDIAのGPUも出荷できない。TSMCが製造する半導体に支えられる産業は多種多様で、世界の主要産業の生命線となっている。政府からの支援も手厚く、台湾に地震が起きるとTSMCの工場に優先的に電力が供給される。まさに「護国神山」とも称されるゆえんである。
世界各国は半導体が意味する地政学的重要性に気付き、自国の半導体生産能力を高めるための政策を競って導入している。日本は2021年6月に半導体・デジタル産業政策を策定、米国は2022年8月に半導体の製造や開発を支援するCHIPS法を成立させ、EUは2023年7月に欧州半導体法を採択、インドも半導体国産化計画を推進する。TSMCはこれら各国・地域の政府の支援を活用して、熊本、フェニックス、ドレスデンに工場建設を進めている。TSMCにとっては投資費用の軽減や市場へのアクセス改善と共に、サプライチェーンリスクの分散を実現できる。しかし一方では、TSMCの最先端技術は引き続き台湾でまず導入され、グローバルな半導体供給リスクの軽減は限定的なものにならざるを得ない。
中国政府は台湾の統一実現を繰り返し宣言してきた。中国は、統一のために武力を用いる選択を排除はしないものの、いつまでに統一するかの期限を明確にしてはいない。これに対して米国は、中華人民共和国が中国を代表する唯一の政府であることは認めつつも、台湾がその一部であるとの主張は認知するにとどめるという「一つの中国政策」を採用してきた。中国がもしも台湾を武力侵攻した場合にも、米軍が台湾を守るかどうかは曖昧なままにしている。米国では、もはや曖昧戦略では中国の侵攻を抑制できないため、武力による台湾の擁護を明言すべきと主張する政治家も出始めている。
民進党の特徴の一つは台湾ファーストが明確な点であり、台湾人のアイデンティティ堅持の優先順位が高い。中国政府は対抗して6月に台湾独立派に対する処罰指針を発表した。生成AIをはじめとする先端技術分野における半導体の重要性が一層明確になり、台湾が世界経済を支えるサプライチェーンの要であるとの理解も進んだ。ファウンドリという存在は、付加価値の低い下請企業という印象から、産業の中心を担う存在へと輪郭をハッキリさせてきている。政治面、経済面、技術面でぼんやりとした境界領域が次第に小さくなっていく。果たして曖昧さの消失は、夜市のような自由と混沌を失ってしまうことにつながり、かつまた地政学的リスクの顕在化を招くことになるのか。このゲームの行方は世界に大きく影響する。