日立総研の研究員によるレポート
グローバル情報調査室
主管研究員
吉田健一郎
2024年7月4日に投開票が行われた英国の下院選挙では、事前の予想通り、野党労働党が全650議席のうち過半を大きく上回る411議席を獲得して大勝した(表1)。翌7月5日にスターマー党首は国王より首相に任命され、14年ぶりの政権交代による、労働党の新政権が発足した。
14年間政権を担当してきた保守党は、メイ政権下でのブレグジットに伴う党内の混乱や、トラス政権下の拡張的予算発表による金融市場の大混乱といったさまざまな失政を通じ、有権者の支持を失った。
他方、労働党は、キア・スターマー党首がコービン前党首の下で左傾化していた党の中道化を図り、保守党への反対票の受け皿となることで、議席を伸ばした。
表1:英国下院選挙の結果
資料:英下院
7月17日に上院でチャールズ国王が行った施政方針演説(King’s Speech)では、労働党が掲げていた政権公約に沿う形で、39の新たな法案が提示された。ポイントは表2に示した通りである。
施政方針演説の力点は経済成長の加速に置かれた。演説の冒頭、第一に提案された法案は「予算責任法案(Budget Responsibility Bill)」である。同法案は、野放図な財政拡張を抑制するべく、主要な税金や支出を変更する際は、独立調査機関である予算責任局(Office for Budget Responsibility:OBR)の評価を事前に実施したうえで、立法化することを定めている。さらに総額73億ポンド(約1.4兆円)の国富ファンド(NWF)の設立による環境投資促進なども掲げられた(詳細は後述)。
同時に、住宅やインフラ建設の促進と迅速化についても強調された。「計画及びインフラ法案(Planning and Infrastructure Bill)」が提案され、5年間で150万戸の住宅建築や、インフラ建設計画の改善による円滑な建設の執行などを通じた暮らしの改善と経済の活性化がめざされることとなった。
その他の法案で注目されるのは、二つの国有企業の設立である。第一は、「旅客鉄道サービス法案Passenger Railway Services (Public Ownership) Bill」や「鉄道改革法案(Rail Reform Bill)」を通じたグレート・ブリティッシュ鉄道(Great British Railways: GBR)の設立と、既存運行会社の段階的な国有化である。GBR設立は、保守党政権下で決められていた施策であるが、労働党政権でも措置が引き継がれた。コロナ後に鉄道利用者が減少する中で、経営の一本化と効率性の向上によるコスト削減が目的とされる。また、保守党政権下で発表された、高速鉄道網の延伸中止については、新政権でも踏襲された。
第二は、「グレート・ブリティッシュ・エナジー法案(Great British Energy Bill)」による、国営エネルギー会社である、グレート・ブリティッシュ・エナジー(Great British Energy: GB Energy)の設立である。GBエナジーは、2030年までの電力供給の脱炭素の実現を通じ、英国をクリーンエネルギー超大国とすることを目標としている。GBエナジーは、83億ポンドの資金を元手に、民間企業とのパートナーシップにより、ネットゼロ関連プロジェクトへの投資を進めていく予定である。
上記以外には、国境管理の強化や国民保健サービス(NHS)の待機時間の短縮化といった、保守党政権時代からの課題解決をめざした政策や、労働者の権利強化といった左派政権らしい政策の導入なども掲げられた。労働党の議会での圧倒的優位を踏まえると、施策は法制化される公算が大きい。
表2:英新政権の施政方針演説(King’s Speech)のポイント
資料:英国政府発表に基づき日立総研が作成
対EU政策に関して、スターマー首相は、EUとの関係改善をめざしている。首相は、EUへの再加入および単一市場や関税同盟への復帰については明確に否定しつつも、保守党政権下で疎遠となったEUとの関係については再構築(Reset)する旨を明言している。2020年12月にボリス・ジョンション首相(当時)がEUと合意した貿易・協力協定(Trade and Corporation Agreement: TCA)は、5年ごとの見直しが定められており、次回は2025年に行われる予定である。これを一つの契機として、スターマー首相は、EUとの連携強化を模索していく考えとみられる。
労働党のトーマス・シモンズ憲法・EU関係担当大臣は、就任早々にブリュッセル入りし、EUとの協議を開始した。同相は、今後のEUとの定期的な会合の開催に加え、安全保障に関する協定、違法移民やエネルギーに関する新たな関係などをめざす旨を述べている。英FT紙報道によれば、英・EU首脳会合については、8月下旬から9月上旬の開催をめざして協議が進んでいる模様である。
英・EU間の貿易については、現在、TCAのもとで原産地規則に準拠した財の取引であれば、関税なしで貿易が可能である。そのうえで、スターマー首相が追加的にめざしているのは、EUとの食品貿易に関する衛生植物防疫(Sanitary and Phytosanitary:SPS)措置の緩和、中でも動物由来食品の輸出入に関する合意(Veterinary agreement)にあるとされる。英アシュトン大学のビジネス発展センターによれば、合意により検疫措置が簡素化されれば、英国からEUへの農業食品輸出は、22%増加するとの推計が示されている。
新政権の政策による英経済の押し上げ効果は、次年度予算案などから歳出と歳入を総合的に勘案する必要があり、現時点で定量的な判断を下すことは難しい。しかし、総じてみれば英経済にはプラスの影響を及ぼす公算が大きい。ポイントとなりそうなのは、73億ポンド(GDP比0.27%)が割り振られた国富ファンドや、83億ポンド(同0.31%)が割り振られたGBエナジーによる投資の効果であり、これらがどの程度民間投資の呼び水となり、設備投資を押し上げるかであろう。
国富ファンドは、港湾改修(18億ポンド)や、EVバッテリーなどギガファクトリー建設(15億ポンド)、グリーン・スチール推進(25億ポンド)、カーボンキャプチャなど脱炭素技術への投資(10億ポンド)といった環境投資を担う見込みで(図1)、既にタスクフォースが立ち上げられた。
また、GBエナジーに割り振られた83億ポンドは、王室経営の不動産企業であるクラウン・エステートとの提携により、5年間をかけて、海底などの王室所有地を利用した洋上浮力発電の開発などに投資され、600億ポンド民間投資を呼び込む予定であることが政府により発表された。
ただし、資金は議会任期となる2029年にかけて、複数年予算の中で分割して歳出される予定である。そのため、英国経済への影響も、段階的となる公算が大きい。詳細は、10月末に発表予定の新政権の予算や、その後のOBRの経済財政見通しなどから確認する必要がある。
資料:Green Finance Institute
図1:英国富ファンドの投資予定
吉田健一郎(よしだけんいちろう)
日立総合計画研究所 グローバル情報調査室 主管研究員
米国および欧州の経済・金融情勢の調査に従事。一橋大学商学部卒業後、みずほ総合研究所、同ロンドン事務所長を経て、2021年より現職。