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社長 溝口健一郎のコラム

第22回:アメリカのアバンダンス

    2月末のニューヨークは大雪であった。搭乗した羽田発便は当日最後のNY行きフライトとなった。着陸時には小雪だったが午後には大雪となり、夕刻にはマムダニ市長が非常事態宣言を発した。日本番号のスマホからも警報が鳴り響く。翌月曜日の日程は全てオンラインに切り替えて実施できたものの、火曜日のワシントンDC行きのフライトは全てキャンセルとなり、アムトラックも半分以上が運転見合わせで到着時間を見通せない。最後の選択肢としてリムジンサービスを使うことにした。路面凍結や渋滞を恐れていたが、ハイウエーはきれいに除雪され、渋滞もなく、快適な5時間のドライブでDCに到着することができた。アメリカでは多くのリソースが自動車のために優先的に配分されていることを実感した。

    今回の出張の目的は、2026年の重点研究テーマに関する有識者たちとの意見交換であった。テーマのキーワードは、AIスタック、資源とエネルギー、金融、デュアルユース、供給改革、日本などであり、全てにおいてアメリカが関与する。今回の訪問で専門家の発言の多くから読み取れたのは、現在のアメリカで「何が起きているか」よりも「何が前提でなくなったのか」に注目すべきということであった。アメリカがかつて担ってきた、世界秩序の設計者であり最終的な調整者であるという役割は、復元される見込みはないというものである。これは、特定の政権や個人の個性に帰せられるものではなく、政治・社会・技術・金融の領域において、アメリカの蓄積が構造的限界に達した帰結と見なすべきとの議論である。

    政治の次元では、統治の重心が制度から裁量へと移動している、関税政策がその典型であろう。関税は本来、通商政策の一部であり、外交交渉の手段であった。しかし現在、それは国内政治を運営するための即効性のあるツールとなっている。国家財政への追加収入を生み、支持層に分かりやすい成果を示し、政治的対立を明確にする。最高裁の判断による制度的歯止めはあるものの、それは方向転換を強制するものではなく、別ルートの探索を促すだけに過ぎない。企業経営にとっては、この不確実性は単なる政策の揺れではなく、裁量の持続だという点が重要だ。関税が続くか否かではなく、関税がいつでも大幅に変更され得るという前提のもとで、サプライチェーン、投資判断、価格設定を決定しなくてはならない。

    AIをはじめとする最先端テクノロジーにおいては、アメリカが引き続き世界最大の競争力を持つことは疑いがない。ただし、急速に実用段階に入っているAIは、AIモデルによる解答機能の高度化だけが競争力決定因子ではなくなり、フィジカルAI・AIモデル・データ・AIインフラがセットになったAIスタックとして優劣が決するようになりつつある。その際には、AIチップによるコンピューティングパワーに加えて、電力供給、データセンター、水、労働力、レアアースなど多くの必要条件が出現する。さらに、高性能かつ高信頼のAIスタック実現を支援するには、法制度、官民連携、国民理解といったソフトインフラも必須となる。58%のアメリカ人がAIを信頼せず、79%のアメリカ人が企業のAI利用は信用できないと考えている現状では、アメリカにおけるソフトインフラ整備は全く不十分と言えるだろう。

    金融のデジタル化も同じ制約構造の中にある。ステーブルコインやトークン化は金融取引を格段に効率化するが、その普及速度を決めるのは技術ではなく法制度とガバナンスである。所有権、決済の保証、エラー時の責任所在といった点は後から決めるというわけにはいかない。そのため、金融のデジタル化は革命というよりも、既存制度の再設計として進んでいく変革と言える。従って、世界の通貨制度をひっくり返すのではなく、むしろ、そのバイアスを強化する方向に働く可能性が高い。ドルの覇権を揺るがすのではなく、ドルの利便性がさらに高まることでドルの覇権が強化されることになる。円を含むその他のマイナーな通貨を有する国々は、デジタル化とAI活用による金融変革が、急激な自国の通貨安や大規模な資本流出を引き起こす可能性に備える必要があるのかもしれない。

    アメリカは現在、経済でも技術でも安全保障でも間違いなく世界最強である。しかしそのアメリカであっても世界全体を担う力はないし、その認識は近来のアメリカ自身のテーゼともなっている。「アメリカは世界の警察官ではない」と言ったオバマ大統領以来、バイデン大統領による介入抑制(アフガニスタン撤退)、トランプ大統領による“America First”へと継承されてきている。それにもかかわらず現在アメリカは、欧州、南米、中東などの多くの紛争に同時に関わることで、リソースは広く薄く分散してしまっている。国内もまた、制度疲労を背景に裁量による変化が常態化し、次に何が起きるか見通すことが難しくなっている。その結果、効率が低下し、コンセンサスの構築が困難となって分断が広がり続けている。ハードインフラもソフトインフラも整備が間に合わず、住宅も鉄道も空港も長きにわたってアップデートされていない。以前のアメリカにあった「丘の上の光り輝く街」のイメージからははるかに遠い。誰もが憧れたかつてのアメリカは、ハードもソフトも豊かさに満ちていた。あのあふれんばかりの豊穣(abundance)を取り戻すことができれば、その恩恵は世界に広がるであろう。

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