所属部署 研究企画室
氏名:伊東裕文
ちょうどわが国で21世紀を迎えつつある頃、一世を風靡した「デジタルエコノミー」は、ITバブル崩壊を経て世界同時経済安定成長路線にのった今も、記憶に新しい。産業革命に匹敵するかのようにIT革命論が提唱され、日米でネットベンチヤーが衆目を集め、「ビジネス・モデル」という当時を読み解くキーワードも生まれました。こうしたばら色の未来を予言したバイブルが、時の米国クリントン民主党政権発のいわゆる「デジタルエコノミー」です。この「デジタルエコノミー」という言葉を冷静に振り返り、なぜ熱狂が冷めたのか、考えてみましょう。政策として唱えられたキーワードが、何処まで信頼に足るのか、今、考えてみたいのです。これからもこうしたキーワードは次々に登場するはずですから。
経済戦略を看板にした民主党クリントン政権が、「デジタルエコノミー」を初めて世に問うたのが、インターネットが商用化(民間開放)された1995年の3年後の、1998年です。その名も「エマージング・デジタルエコノミー」でした。IT投資のGDP占有率の急拡大(’85年は4.9%、’90年は6.1%、’98年は8.2%)を指摘し、IT製品の価格低下はインフレ抑制の効果がある、と評価しています。翌年の続編を経て、2000年6月には、「エマージング」という枕詞が取れたその名もずばり「デジタルエコノミー2000」が、世に出ます。そこでは、インターネットは経済再生の原因かつ結果と評価されており、インターネットがばら色の未来を約束するかの趣きです。日本でも同じ陶酔感に浸ったはずです。この陶酔感から1年を待たずして、日米で相次いで「ITバブル」の崩壊がおこりました。もちろんこの崩壊後、弾けたがゆえに「ITバブル」と命名されたのはいうまでもありませんが。
では、このITバブル崩壊で、「デジタルエコノミー」は、姿を消したかといえば、そうではありません。民主党から政権交代した共和党のブッシュ政権は、政権就任翌年の2002年に「デジタルエコノミー2002」を出し、1996年から2000年で、経済成長率は年平均4%で、IT産業のGDP占有率は7%と冷静に総括しています。翌年12月の「デジタルエコノミー2003」では、2003年のIT産業のGDP占有率を8%としており、この民主党から共和党に引き継がれた「デジタルエコノミー」シリーズはここで終わりを告げます。
実は、米国IT産業のGDP占有率は’90年代末から2003年までほぼ8%で、米国IT産業はこの時期に成熟期を迎えたことになるのです。こうして皆が無意識に成熟を感じた2003年頃には、「デジタルエコノミー」を論じる人はいなくなりました。
「デジタルエコノミー」の正当化の代表例は、「収穫逓増の法則」または「ネットワーク外部経済性」と呼ばれました。つまり一定の状況下ではIT企業の売上規模が拡大するに従いその企業の商品のユーザ数が増え、その商品の価値が増加しマージンや資本生産性も向上するとされました。経済原則では、企業規模が拡大しても競争があるので利益率はある一定レベルに保たれますが、収穫逓増産業ではこうした経済原則に反して、規模の拡大に従い、ますます利益も増えるとされたのです。デジタルエコノミーがニューエコノミーと呼ばれたゆえんです。しかし事実は、マイクロソフト・オフィスのように収穫逓増が働く稀有な例もある、ということでした。マイクロソフトが成功した要因は、収穫逓増を狙ったかどうかはわかりませんが、ファイルを共有するための互換性を確保したことでした。その結果、稀有な収穫逓増現象が起こったのです。そしてまれな例、すなわち例外を皆が新しい一般経済原則と誤解しそれを追い求めたことが、バブルが起こり弾けた原因の一つです。
「デジタルエコノミー」が消えるや否や、今度は、2004年12月には、政府ではなく民間から「イノベート・アメリカ」が発せられます。これは、作成中心人物のIBM・CEOの名前を冠して「パルミサーノ・レポート」とも呼ばれます。そしてわが国で、2006年に誕生した安倍政権が掲げる「イノベーション25」もあり、日米でキーワードは「イノベーション」の様相を呈しています。「デジタルエコノミー」の論じ方(稀有な例を一般法則化して新たな時代の到来を告げる)のてん末を、歴史の教訓として、イノベーションを論じたいものです。
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