ページの本文へ

社長 溝口健一郎のコラム

第14回:バイオトランスフォーメーションの困難なミッション

    ノーベル生理学・医学賞受賞者であるポール・ナースは、著書『生命とは何か』において、生命を三つの原理で定義している。1. 自然淘汰(とうた)を通じて進化する能力がある、2. 「境界」を持つ物理的存在である、3. 化学的・物理的・情報的な機械である、の三つである。一般的には、1は「自分の複製をする」、3は「代謝を行う」と言われることが多いが、ナースは生命の個体としての側面だけでなく、種を超えて連綿と続く「生命の樹」のつながりを強調し、生命は化学的にエネルギーを転換するだけでなく、情報を知識に転換するものでもあることを重要視している。個々の生命体は代謝によって自らを維持し、成長させ、生命としての存続を止めること=死を避けようとする。種としての生命も、進化によって種の存続を長引かせようとしている。地球に最初の生命が誕生したのは約40億年前とされるが、以来、新たな種を生み出す「生命の樹」として、自らの死滅にあらがい続けている。生命は、外部環境の情報を知識に変え、その知識によって外部環境に働きかけることで、その延命能力を高めて生きているのである。

    「シュレーディンガーの猫」で有名なノーベル物理学賞受賞者のシュレーディンガーは、著書『生命とは何か』において、「生物体というものがはなはだ不思議にみえるのは、急速に崩壊してもはや自分の力では動けない『平衡』の状態になることを免れているからです」とした。森羅万象はエントロピーの増大を続け、熱力学的平衡状態である究極の無秩序に至るという「熱力学の第二法則」を回避していることこそが生命だ、との主張だ。生命は、稀有(けう)なことに、環境から継続的に「秩序」を引き出すことで、死を先延ばしにすることに成功している。宇宙全体においてもエントロピーは増大を続け、やがて宇宙は最も無秩序な状態である熱的死を迎えるとも想定され、エントロピーを下げた状態を維持するのは局所的にしか不可能なのである。境界を持つ物理的存在として生物が成し遂げている秩序の維持こそが、生命の驚異と呼ぶべきものなのだ。

    映画ミッション:インポッシブルシリーズは7作目までが公開されている。トム・クルーズ演ずるイーサン・ハントが米国のスパイ組織IMFのエージェントとして活躍する人気映画シリーズだ。ハントは、不可能と思える数々のミッションを予想外の発想と常人を超えた身体能力で次々とクリアしていく。絶対優位であったはずの敵が驚きの表情と共に敗れていくことで観客にカタルシスをもたらす物語である。ハントが相対する敵の多くに共通する不可思議な特徴は無秩序への偏愛だ。「ゴースト・プロトコル」のカート・ヘンドリックスは自らの死をかけても世界核戦争を起こそうとする。「ローグ・ネイション」のソロモン・レーンは世界でテロと大量殺人を続けることが正しいと信じ、次の「フォール・アウト」では核爆発によって世界人口の三分の一の水源を汚染することを企てる。「デットレコニング」のガブリエルは人類の支配権をAIに引き渡すことを望む。誰も、ジェームズ・ボンドの敵のスペクターや仮面ライダーのショッカーのように世界征服をめざしたりしない。単に世界を無秩序に転落させよう、世界のエントロピーを増大させようとしているかのようである。

    石油などの化石燃料は数億年前の生物の死骸が海中などに堆積し、地熱や地圧の影響で変化して生まれた物、との説が有力だ。生命が持つ秩序形成の力が凝縮しているからこそ、高いエネルギー価値を有するとも言える。化石燃料のエントロピーを急激に放出、増大させることで人類は経済発展を実現してきた。ただし、熱エントロピーを赤外線の形で宇宙に放出することで、地球は開放系として機能し、無秩序の支配から逃れてきていた。しかし、温室効果ガスの増加によって赤外線が反射・吸収されてしまい、地球は閉鎖性を高め、エントロピー増大が加速する危機を迎えている。生命は、個としても種としても、周りの環境に影響を与えることで寿命を延ばすことに成功してきたが、人類は「人新生」として地球に新たな地質時代を形成しているとも称されるほどの規模とスピードで環境を改変している。「生命の樹」はその影響によって滅びることになってしまうのかもしれない。

    バイオトランスフォーメーションとは、生物が本来から持つ性質や機能を活用することで、新たな経済価値を生み出し、社会課題解決にもつなげていく取り組みだが、生命だけが持つ高度な「秩序」の力を今一度借りることで、加速するエントロピーの増大をスローダウンさせる試みとも言い換えることができる。バイオの力で無秩序と戦う我々のチームにイーサン・ハントはいない。長年のバイオ研究で蓄積された知恵と、生命の不思議に対する畏敬の念をもって、困難なミッションに立ち向かうしかないのであろう。

    機関誌「日立総研」、経済予測などの定期刊行物をはじめ、研究活動に基づくレポート、インタビュー、コラムなどの最新情報をお届けします。

    お問い合わせフォームでは、ご質問・ご相談など24時間受け付けております。