社長 溝口健一郎のコラム
アンゲラ・メルケル氏は、2005年から16年間にわたってドイツの首相を務めた。東西ドイツ統一後の初めての東ドイツ出身の首相である。彼女の首相就任によって、ドイツは真にひとつになったといえるのかもしれない。新型コロナウイルスが蔓延(まんえん)し世界が危機に瀕(ひん)していた2020年3月に、メルケル氏は国民に直接話しかける形でテレビを通じて演説をした。パンデミックを第2次大戦以来ドイツにとって最大の挑戦と位置づけ、国民に事態への対応を呼びかけたのである。感染拡大を防ぐために外出制限が必要であることを冷静に訴えるとともに、国民一人一人への共感を示し、国民に勇気と安心感を与えることに成功した。多様性と対話を重んじるメルケル首相は、シリアやアフガニスタンからの難民などに対する人道的責任を強調し、「私たちはやり遂げる」として100万人の難民受け入れを進めた。メルケル首相は、ロシアのプーチン大統領との面会を繰り返し、ノルドストリーム天然ガスパイプラインを建設するなど、ロシアとの関係強化も進めた。
2014年にロシアがクリミアに侵攻し、軍事力によってクリミアを併合した際に、メルケル首相はロシアを厳しく批判したものの、経済面でロシアとの関係を断つことはなく、ノルドストリーム2の建設を推進し、ロシアへのエネルギー依存度を高めていった。ドイツは脱原発の方針を決定していたことから、経済界は安価で安定したエネルギー供給を求めており、ロシアとのパイプライン建設はその期待に応えるものであった。メルケル首相の対中国政策も、人権問題と経済問題を切り離して進められた。メルケル首相はほぼ毎年中国を訪問して江沢民、胡錦濤、習近平各主席との関係を構築し、その都度ドイツ経済にメリットとなる貿易協定の締結や投資機会の拡大に努めたのである。中国はドイツにとって最大の輸出先となり、ドイツ経済伸長の強力なドライバーとなった。
一方、移民の急速な受け入れは、ドイツ社会の安定を揺るがし極右勢力の台頭を招くこととなった。「ドイツのための選択肢(AfD)」は、経済的自由主義とEU懐疑主義を掲げて2013年に設立されたが、難民危機を契機に反移民・反イスラムを主張して急速に右傾化し、2025年5月にはドイツ連邦憲法擁護庁が、監視すべき極右団体として指定している。ドイツのロシアへのエネルギー依存度はさらに高まり、特に2021年度に調達した天然ガスのうち、約52%がロシア産であった。ロシアによるウクライナ侵攻以降、ドイツ政府はロシアからの直接的な天然ガス調達を急速に減らし、現在ではゼロとなっている。中国向けのビジネスに関しては、中国経済の低迷、中国企業との競争激化、安全保障上の課題などから失速し、輸出額では、2024年に中国が9年ぶりに首位陥落し米国に交代した。経済と安全保障を切り離すことが困難な時代の反映である。
1862年にプロイセンの首相となったオットー・フォン・ビスマルクは、「現下の大問題は鉄と血によってのみ解決される」と訴え、官僚制と軍隊を政治の道具として使い、社会の改革と国際舞台での成果獲得を図った。デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争に勝利し、1871年には現在のドイツの原型となる新ドイツ帝国を成立させた。ビスマルク時代に、ドイツでは鉄道網が拡張し、石炭・鉄鋼業が発展、労働者の保険制度も整備されるなど、国民の生活水準は向上した。しかし、統一国家実現が遅かった故に、他の欧州諸国と比べるとドイツの成長開始は遅く、「遅れてきた帝国」として権益の獲得に焦りを生じることとなった。対外的には、アフリカやアジアでの利権を巡り英仏との摩擦を高め、ロシアとはバルカン半島における勢力拡大で対立した。国内では、軍部や保守派が労働者の不満を外敵に向かわせるために右傾化を強めた。結果、第1次世界大戦に向かってしまうことになる。
近年の強いドイツ経済を実現させた、米国主導の安全保障、ロシアによる安価なエネルギー供給、急拡大を続ける中国市場、という三大要素は、米国の自国優先主義、ロシアによるウクライナ侵攻、中国市場縮小によって全て消失した。2月のドイツ連邦議会選挙でキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)が第1党になったが、AfDがドイツ連邦議会選挙で152席を獲得して第2党に躍進したため、CDU・CSUは中道左派のドイツ社会民主党(SPD)と連立を組むしか選択肢がなかった。首相選出選挙の5月6日に私はちょうどベルリンを訪問していたが、メルツ氏が1回目の投票で議会の過半数を得られなかったため、訪問先のシンクタンクでも研究者たちがひどくざわついていたのが印象に残っている。メルツ新政権は不安定な政権基盤を抱えての船出となったのである。
ドイツは非常に厳格な財政規律を旨とし、憲法によって連邦政府の債務レベルを規制していたが、3月にこの規制を緩和し、今後、軍事力強化と社会インフラ整備のための支出拡大を図る。リトアニアでは第2次世界大戦後初となるドイツ軍単独での国外駐在を開始した。徴兵制の復活も検討されているという。メルツ首相はエネルギー効率の改善を掲げ、原子力エネルギー活用復活をめざしたが、連立相手のSPDの反対を受けて断念した。産業界を復活させるエネルギー改革は道筋が見えない。ロシアを支援する中国との関係回復は難しく、その市場を成長の支えにすることは最早困難だ。国内政治、外交、経済、安全保障においてドイツは歴史的転換点にある。メルケルのようになのか、ビスマルクのようになのか、どのように再び強いひとつのドイツを実現できるのか、世界が注目している。
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