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社長 溝口健一郎のコラム

第23回:ブラックスワンの微笑み

    個人や組織にとってリスクとは、容易には予測できないこと、想定可能な範囲、あるいは対応可能な範囲を超えた事象が発生してしまうことである。この際、リスクとはポジティブなもの(機会)もネガティブなもの(脅威)も含むとして考えよう。いつ死ぬか、事件・事故に巻き込まれるか、大金を拾うか、運命的な出会いをするか、予測できない。9.11の同時多発テロ、東日本大震災、ロシアによるウクライナ侵略は予測できなかった。ペニシリンの発見、iPS細胞の作製、AIの爆発的進化は予測されていなかった。ポジティブなリスクは歓迎だが、ネガティブなリスクは避けたい、小さくしたい。設定している期待からのズレであるリスクにどう対処するかと考えると、リスクから逃げる、リスクを移す、リスクに備えるといった選択肢がある。「君子危うきに近寄らず」と危ないことはしない、病気や事故に備えて保険をかける、自然災害や戦争に備えて必需品の備蓄をする、などである。

    そのようにネガティブリスクを管理しようとすると、どの範囲までを管理対象のリスクとするのかという問題に直面する。朝の通勤電車が遅れるかもしれないリスクは管理可能だが、10分程度の遅れであれば管理すべきリスクというほどのこともないであろう。1時間の遅延になると対応方法を考えなくてはいけないが、爆破テロによって鉄道システムが破壊されるリスクを毎日想定する人はいない。管理対象となるリスクとは期待値からの一定範囲内に収まるズレなのである。その一定範囲はリスクを引き受ける主体によって大きく異なる。健全なバランスシートと潤沢なキャッシュを有する大企業であれば突然の金利上昇や取引先の破綻にも耐えうるが、資本を大きく上回る借り入れによって巨額投資を続けている新興企業にとってはその限りではない。一方で、リスク回避のため投資は最低限で無借金経営を社是とした場合、短期のリスクは軽減されるが、中長期には成長力を失い、投資家からも見放されて結局はリスクにさらされるということになるやもしれない。リスクを生じる期待値からのズレには、時間軸による偏差も読み込まなくてはならないのである。

    経営を取り巻くさまざまな環境の変化が激しい現代において、企業はリスクに備えるべきであるのはもちろんだが、経営陣が毎日、天変地異や第3次世界大戦や次のパンデミックについて議論するわけにはいかない。一方、競合企業による新製品発表、需給バランスによるサプライチェーンの動揺、債券市場や資本市場のサイクル変化による調達コスト変動など、ビジネス・アズ・ユージュアルをすべてリスクとしてのみ扱ってしまっては経営にならない。リスクとして管理する項目の範囲を決め、時間軸と共にリスクに対する予測を進め、リスク顕在化の場合のシナリオ設定および各シナリオへの対応設計をする、という段取りが必要になる。未来のズレを、認識し、想定し、吸収する仕組みをつくることとも言える。個人は、通勤電車が1時間以上遅れた場合のリスク対応はほぼオートマチックに可能だろうが、組織はそれを意思をもって戦略的にデザインする必要があるのである。

    管理対象となりえないリスク、想定を超えるリスク=ブラックスワンも実現することはある。これに対しては個別対応は限りなく不可能に近くなる。天変地異や第3次世界大戦に対するシナリオ設定、対応設計に多大なリソースを費やすことはできない。ブラックスワンに対しては、組織を、ナシーム・ニコラス・タレブが言うところの“アンチフラジャイル”にしていくことが必要となる。筋肉にストレスをかけるとより強くなるように、首を切断されると二つの首が生えてくるヒュドラのように、リスクを経験することでより強くなるような仕組みをビルトインしていくのである。実際には、これは超保守的選択90%と超ハイリスク選択10%の組み合わせの“バーベル戦略”などとして実行される。通常は極めて安定的な成長を実現すると同時に、ブラックスワンが実現した際にも壊滅的打撃を免れる準備ができているという戦略である。ただし、これは平時においては効率を低下させることにつながる。あくまで生き残ることを最優先とした戦略なのである。

    ポジティブなブラックスワンを逃さない企業戦略は、知の深化と知の探索を並行する両利きの経営となるであろう。既存事業を確実かつ執拗(しつよう)に成長させつつ、失敗を許容し無駄金となるのをいとわない未知の分野への投資を続ける。分裂症的な戦略は組織の中にあつれきを生み、全体の利益率の足を引っ張ることになり、成功は容易ではないが。個人としては、いつもは危ないことには手を出さず、しっかり保険をかけて堅実に暮らしながら、時には冒険する、さまざまなことを試してみる、旅に出る、多くの人と語る、ということになるのであろう。パーティーに出掛けなくては出会いもない。近代細菌学の基礎を築いたルイ・パスツールが言ったように、「偶然は、準備のできていない人にはほほ笑まない」のである。

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