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株式会社日立総合計画研究所

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ニックヒル・グプタ著「The Eight Percent Solution: A Strategy for India’s Growth」
〜2030年代のインドが持続的な高成長を達成するためのロードマップ

グローバル情報調査室
主管研究員
吉田 健一郎

インドは、これからも高成長を維持できるのか―。2023年8月に発刊された本書は、Motilal Oswal Financial Servicesのチーフエコノミストであるニックヒル・グプタ氏が、この問いに対し真正面に取り組んだ良書である。英フィナンシャル・タイムズ紙が選ぶ2023年のベスト経済書のうちの1冊にも選ばれた。
本書のタイトルとなっている「The Eight Percent」とは、インドが高所得国に転じ、持続的な発展を遂げていくのに必要な成長率のことである。2023年度のインドのGDP成長率は8.2%であったことを踏まえると、既にこの成長率にインドは到達しているようにも見える。しかし、筆者は現在の高成長は持続的ではなく、放置すれば経済は失速すると警鐘を鳴らす。
本書は、分析フレームワークの明快さ、また読みやすさという意味でも優れている。まず、分析のフレームワークについて、筆者はインド経済を、家計、企業、政府、海外の4部門に分けるケインジアン的アプローチで分析を行い、その上で、各経済主体間の相互作用について、独自推計も含めた豊富なデータを用いて考察を加えている。
読みやすさという点においても、本書は独特だ。各章の冒頭は、必ず筆者と架空の非エコノミストとの会話から始まる。こうした書き出しとすることで、インド経済が抱える問題点が、読者に対して非常に身近なものに感じられると同時に、エコノミスト的な小難しさが排除され、読みやすさが増している。

1.インドの各経済主体が抱える構造問題

本書の2〜4章は、家計、企業、政府の各経済主体が抱える構造的な問題点を分析する、本書の中で中心的なパートとなっている。

1.1 家計部門の資金繰りは悪化し、貯蓄率は低下

まず家計部門について、筆者は、近年の家計の消費行動が“Buy till you die(死ぬまで買い続ける)”とでもいうべき、野放図なものに変わりつつあり、貯蓄が減少している点に懸念を示している。
例えば、消費を必需品などの基礎的消費と必需品以外の選択的消費に分類して分析すると、1980年代に消費総額の40%であった選択的消費のシェアは、2020年度には52.1%まで増加した。必需品以外の選択的消費が増えるとともに、家計の資金繰りは悪化している。
筆者は家計の資金繰り悪化の証左として、家計のデット・サービス・レシオ(DSR)の高さを指摘する。DSRは、収入に対する利払いの比率を示した財務指標であり、返済余裕度を測る。筆者は、インド家計部門のDSRを算出し、家計部門における金利負担が非常に大きいことからDSRが上昇し、債務が持続性を欠くものになっていることを明らかにしている。

1.2 企業収益が好調な割に投資は伸びていない

次に企業部門について、筆者は上場企業だけでなく中小企業も含めた全体の業績把握と投資動向の分析が重要、と指摘している。インドの企業数、約246万社のうち上場企業は6,754社に過ぎないためである。
一般に、インドの企業収益は、2008年度のGDP比6%から、コロナ期前にはGDP比2〜3%まで低下していると指摘されることが多い。しかし、筆者によればこの数値は上場企業に限ったものであり、中小企業も含めれば企業収益はもっと良好である。第4章では、企業部門全体の収益は、2008年度にはGDP比12.3%、その後コロナ期前までは、同9.5%と高めに推移していたことが明らかにされている。
他方、正の相関関係を有するはずの収益と投資の関係は、近年、上場企業を中心にデレバレッジが進む中で弱まっている。収益が増加している割に投資は伸びておらず、筆者は、この点を強く問題視している。筆者は、企業部門こそが借り入れを増やし、投資を拡大させていくことが、長期的な国力の拡大につながると考えているのである。

1.3 政府部門の財務状況は悪化

次に政府部門について、筆者は中央と地方の債務を一体として把握することの重要性を強調している。
筆者は、中央政府と地方を含む全ての財政収支を勘案して調整済み財政赤字(AFD:Adjusted Fiscal Deficit)を推計し、2010年代のAFDが平均で名目GDP比7.7%と、公式統計でみられる6.8%よりも1%ポイント近く高い点を明らかにした。結果、債務残高も2021年度は名目GDP比87%に達しており、政府債務残高は増加している。
また、中央政府のインフラ投資についても、コロナ後に国防、鉄道、高速道路などの分野で急増しているように見えるものの、中央公共企業体(CPSE)を通じたインフラ投資が年々低下しており、両者を合算してみれば、2023年度のインフラ投資はGDP比5.7%と、8年ぶりの低水準となっている点が示されている。

2.インド経済、3つのシナリオ

現状のまま進むと、インド経済はどうなるか。第6章では、各経済主体間の相互関係性に触れつつ、2020年代以降の成長見通しに関する、3つのシナリオが示されている。
第1のシナリオは、所得が伸び悩む中で個人消費が徐々に減速、政府支出も鈍化といった、景気減速シナリオである。企業部門は高収益の割に投資が伸びず、結果的に成長率は低下を余儀なくされる。
第2のシナリオは、インドが「中所得国の罠(わな)」にはまり、長期的に停滞するシナリオである。短期的には、野放図な消費拡大により、GDP成長率は加速するが、やがては、貯蓄が取り崩されて消費は減速し、投資も進まないことから成長率は長期的にも上昇しない。
第3のシナリオは、貯蓄の裏付けのない投資過熱により、国際収支が急速に悪化するシナリオである。このシナリオでは、個人消費に加えて投資もさらに盛り上がり、GDP成長率は急上昇するが、貯蓄を上回る高水準の投資は対外借り入れへの依存を高め、国際収支の大幅な悪化と不安定化を招いてしまう。
上記はいずれもバラ色の未来とは言えないが、筆者はベースケースとして第1のシナリオを想定し、2020年代の低成長期を「癒やしの10年(Healing decade)」と捉え、この間に構造問題を解決することを提唱している。そうすることで、2030年代には「強靭(きょうじん)な経済を持つ10年(Economically Strong Decade(s))」が実現し、8%の高成長が持続的に達成できる、と主張する。

3.持続的な8%成長に向けた処方箋

そのために2020年代にどのような改革をすべきか。筆者は、持続的高成長を実現できた経済モデルである「東アジア型成長モデル(EAGM)」から得られる教訓を生かそうと考えている。
EAGMの中身を見ると、成功した国では家計部門は貯蓄超過となり、豊富な国内貯蓄と海外借入を用いて企業部門が積極的な投資を行い、供給能力を高めていったことが分かる。初期には経常赤字が発生するが、国内への投資拡大と共に輸出競争力が高まる中で経常収支は黒字に転じ、国際収支も安定する。
ここで筆者が、経済構造の転換に向け、まずは企業が積極的に投資を拡大するための資金を調達出来るよう、家計部門が貯蓄を増やすことが第1で、そのためには消費を減らす施策を採ることも時には重要だ、と主張している点は興味深い。こうした政策は無論政治的な難しさがあるが、政府部門も家計に消費を促すような政策を避け、企業に対しては輸出拡大を促すような施策を採るべきである、と筆者は述べている。
筆者は、インドが持続的に8%の高成長を達するためには、経済の3つのエンジンである消費、投資、輸出の全てが力強く機能する必要があると考えている。そのためには、限りある供給能力を有効に使い、国内消費を犠牲にしてでもまずは貯蓄を作り、それを元手に企業が成長のための投資を増やし、そのために必要で適切な政策を小さな政府が実施する、これが筆者の考える “Eight Percent Solution”であろう。これからもインド経済からは目が離せない。

執筆者紹介

吉田健一郎(よしだけんいちろう)
日立総合計画研究所 グローバル情報調査室 主管研究員
米国および欧州の経済・金融情勢の調査に従事。
一橋大学商学部卒業後、みずほ総合研究所、同ロンドン事務所長を経て、2021年より現職。