外部寄稿
日本政府は今年6月3日に統合イノベーション戦略推進会議にてバイオエコノミー戦略を決定した。これは2019年に策定されたバイオ戦略について最新の国内外の動向をふまえて改訂し、名称も改めることで、「2030年に世界最先端のバイオエコノミー社会を実現」するという目標に向かって施策を強化するものである。バイオエコノミー戦略が決定されたことで、今後、産業界のバイオトランスフォーメーション(BX)が加速化することが予想される。そこで、本稿では加速するBXの中でも核となる技術であり、さらにデジタル技術との融合がカギとなるバイオものづくりを中心に、デジタル技術の必要性について述べていく。
国内では、2018年より〇X(〇トランスフォーメーション)というワードを頻繁に目にするようになった。最も一般的なものとしてデジタルトランスフォーメーション(DX)が挙げられるが、近年ではグリーントランスフォーメーション(GX)というワードも目にする機会が増えてきた。DXとは、言うまでもなくAI(Artificial Intelligence)やIoT(Internet Of Things)と言ったデジタル技術によるビジネスモデルの変革、新しい市場価値創造を示すものであり、元々は2004年にスウェーデンのストルターマン教授によって提唱された言葉である。その後、2018年に経済産業省が「デジタルトランスフォーメーションを推進するためのガイドライン」を作成し、民間企業のDX化を推進したことで一気に広まった。GXは、カーボンニュートラル実現に向けた取り組みであり、化石燃料中心の社会構造を、太陽光や水素などの環境負荷が少ないクリーンエネルギー中心の社会へ変革することを目的とした変革や活動を示している。2023年5月に国会でGX推進法が成立したことで、今後の日本のエネルギー政策の方向性が明確化された。
さまざまな分野が「トランスフォーメーション」されていく潮流の中で、次に期待されているのがバイオトランスフォーメーション(BX)である。BXという単語が注目されるようになったのは、日本経済団体連合会(経団連)が2023年3月に「バイオトランスフォーメーション(BX)戦略」を提唱したことに端を発する。経団連は2024年4月にも「バイオトランスフォーメーション(BX)実現のための重要施策」を提唱した。このことからも、産業界がBXについて本気で取り組んでいこうとする姿勢が読み取れる。では、なぜ今BXが推進されているのだろうか。
BXは産業革命を起こすと期待されている。DXはビジネスシーンでAIやIoTを一般化し、従来のビジネスモデルを刷新することで経営を各段に効率化してきた。GXは産業活動の基盤となる使用エネルギーを大転換するものであり、始まったばかりではあるが、持続可能な産業活動を行うために必要なものである。DXにより産業活動の経営が効率化され、GXにより産業活動が持続可能に向かうという流れの中、次は産業活動の中身自体の変革が求められている。BXは18世紀半ばから続いてきた石化資源を中心とした工業化・産業活動をバイオ由来に変革させるものであり、第5次産業革命を起こし、世界の産業構造を大きく変革させる流れと考えられている。
BXを加速する政策的な動きこそがバイオエコノミー戦略の決定である。現在、バイオテクノロジーやバイオマスを活用した経済活動を意味するバイオエコノミー分野では、グローバルな政策や市場競争が加速している。そこで、バイオエコノミー戦略を決定することで国としての方針を明確化し、国際競争力強化をめざしている。ここで言う国際競争力強化とは、つまりは国内産業による市場拡大であり、バイオエコノミー分野の市場拡大をめざすものとして、(1)バイオものづくり・バイオ由来製品、(2)1次生産等(農林水産業)、(3)バイオ医薬品・再生医療等(ヘルスケア)の3領域が設定されている。(1)のバイオものづくり・バイオ由来製品とはBXの本流であり、これまで石化資源に依存していた原料やプロセスをバイオ転換する技術(バイオものづくり)や製品(バイオ由来製品)を意味する。(2)の1次生産等で期待されているものはスマート農業の拡大やそれに適した品種開発であり、これにより持続可能な食糧供給産業の活性化をめざしている。さらに(3)のバイオ医薬品・再生医療では革新的な研究シーズをいかに創薬等につなげるかという問題解決やCDMO*1拠点整備などを課題として考えている。バイオエコノミーの市場拡大のうち、(2)(3)は元々バイオ分野であり、今後どう拡大していくか、どう産業化につなげていくかという視点であるのに対し、(1)のバイオものづくり・バイオ由来製品は元々バイオではないものをバイオ転換していくという点で、BXの中心となると考えられる。
次にバイオエコノミーおよびその中心となるバイオものづくりに対する世界動向の概況を述べる。世界各地で、温暖化およびそれに伴う昨今の気候変動や人口増加への対応、緊迫する国際情勢などからもカーボンニュートラルの実現や循環型経済、食料・エネルギーの確保といった社会課題解決が求められている。そこで各国ともバイオテクノロジーやバイオマスを用いることで持続可能な経済成長をめざしたバイオエコノミーに関する国家戦略を策定し、適宜改訂を行っている。元々バイオエコノミーという概念は2009年に経済協力開発機構(OECD)が提唱した概念であるが、海外では国内に先行してバイオエコノミーへの関心が高まっており、後述するように米国や欧州連合(EU)で2012年にバイオ戦略が公表されたことをきっかけに各国でもバイオエコノミーへの戦略が策定されてきた。
米国では、2012年にバイオエコノミーに関する戦略をいち早く発表したが、2022年9月にはバイオテクノロジー関連産業の国内回帰促進などを目的とした「持続可能で安全・安心な米国バイオエコノミーのためのバイオテクノロジーとバイオものづくりイノベーション推進に関する大統領令」が発令され、バイオエコノミーの中でも特にバイオものづくりを強化・推進する方針が明確に示されている。この大統領令では、今後10年以内に世界の製造業の3分の1がバイオものづくりに置き換えられ、バイオものづくりの市場規模が最大で30兆ドル(約4,000兆円)に達する可能性があると分析し、そのためにバイオものづくり産業の拡大に向けた集中的な投資を行う方針を明らかにした。
EUでは2012年に当時はまだその加盟国だった英国を中心としてバイオエコノミー戦略を策定し、2018年に改訂、さらに2023年には「欧州再生可能エネルギー指令」を改訂することで、バイオエコノミーとサーキュラーエコノミーを統合した循環型バイオエコノミー(サーキュラーバイオエコノミー)構築をめざしている。サーキュラーエコノミーで製品に当たる部分が、サーキュラーバイオエコノミーではバイオものづくりに相当する(図1)。
資料:オランダ「A Circular Economy in the Netherlands by 2050-Government-wide Program for a Circular Economy」(2016)より著者作成
図1 サーキュラーエコノミーとサーキュラーバイオエコノミーの関係
中国でも、2022年5月に第14次5カ年計画バイオエコノミー発展計画を発表した。この計画では、バイオテクノロジーと情報技術の融合とイノベーションを推進することで、バイオ医薬、バイオ育種、バイオ材料、バイオエネルギー等の産業の発展を加速し、バイオエコノミーを拡大および強化することが明記されている。中国ではバイオエコノミー重点発展分野として、バイオ医薬品、生物農業、バイオマス代替品開発とガバナンスシステム建設の4分野を挙げており、中国共産党がバイオ分野に11兆円以上を戦略的に投資することで、中国国内に数カ所のバイオものづくり拠点を整備している。
バイオエコノミー政策の中心課題であるバイオものづくりへの傾倒はアジア諸国でも加速しており、韓国、タイ、シンガポールなどでも国策としてバイオものづくりへの取り組みを強化している。韓国では、政府系研究機関が公的なバイオものづくり拠点として稼働し、産業界のバイオものづくりを下支えするとともに、本分野で先行している英国と連携し、共同研究センターを設立した。タイでは、大手石油公社がBXの一環としてバイオものづくり用のプラント設置に出資するとともに、バイオマスの資源国としての戦略を策定しつつある。また、シンガポールでは、公的バイオものづくり拠点を設置するとともに、米国や英国と連携して産業界とのコミュニティを形成し、バイオものづくり産業化に向けた動きを加速している。
オーストラリアでは、特性を生かしたバイオものづくりに注力している。クイーンズランド政府では“Biofutures”というキーワードの下、農業が盛んな強みを生かし、世界最先端の持続可能なバイオ産業に向けた取り組みを実施している。また役割分担を明確にした水平分業型のバイオものづくりセンターやバイオファウンドリを複数の公的機関に設置し、これらの機関が連携してバイオものづくりを推進している。
また、最近ではインドがこの分野を強化する方針を示しており、急速にバイオものづくりに関する研究開発を進めている。
ここまでバイオエコノミーとその中心となるバイオものづくりとの関係性や、国内外の動向について所見を述べてきた。ここからは、ものづくりBXであるバイオものづくりの現況と、あるべき未来像について記載する。
日本において2022年度にバイオものづくり等へ総額1兆円規模の大型予算が処置されたことは記憶に新しいと思うが、では、何をもってバイオものづくりと定義されているのだろうか。実は、現時点でバイオものづくりについての厳格な、もしくは国際基準の定義は存在していない。各国が先を争ってバイオものづくりに投資し、技術開発を行っているにも関わらず、標準化された技術もなければ、「バイオものづくり製品」と定義される認証システムもないのが実情である。極めてあいまいな「原料に(一部でも)バイオマスを利用」したものや、「化学合成の一部に生物生産した産業用酵素を使用」したものでもバイオものづくりしたと言えてしまう状況である。逆に言うと、それだけバイオ分野における物質生産/製造は、石化資源からの工業的な生産/製造とは異なった歴史の上に成立していると言える。
現在、わが国で想定しているバイオものづくり技術とは、合成生物学的な手法を用いて、微生物や動植物などの細胞を物質生産ツールとし、物質を生産することである。これまで主に食品や医薬品関連で行われきたバイオ生産をベースとはするもの、生産物質は化学・素材・燃料・医薬品・繊維・食品など多岐にわたり、特に化学・素材・燃料・繊維の分野でBXを実現する技術であると考えられている。化学・素材・燃料・繊維・食品の分野では微生物を用いた物質生産が想定されており、このベースとなるのは日本が得意とする発酵生産である。
発酵生産は元々食品分野で展開されてきたバイオ技術であり、日本では歴史的に発酵食品を多数製造してきたことからも、日本のお家芸とまで言われてきた技術である。(図2)にバイオものづくりにおける各国の立ち位置を示した。
資料:著者作成
図2 バイオものづくりにおける各国の位置づけ
1990年代までは、日本の発酵生産技術による物質生産は、世界でも一、二を争うレベルであった。しかし、特に2010年前後に合成生物学を利用した微生物発酵生産が世界的に始まったことを契機に、日本のバイオものづくりは米国や英国の後塵(こうじん)を拝することになった。もちろん、国としてもこの状況を打破すべく各種プロジェクトを実施してきたものの、これまでの発酵生産の技術が高かったが故に、新しい技術を受け入れて変換する切迫した必要性がなく、気が付けばすでに新興のインドを含むアジア諸国からも追い上げられている状況になっている。2010年代の合成生物学の何が、これまでの発酵生産を大きく揺るがすことになったのだろうか。
よく混同されるが、合成生物学とは単に遺伝子改変を行う、宿主である微生物や細胞を設計する技術という訳ではない。その前提には、2000年代に集積したゲノム情報とオミクス情報、そして各種機器の発展によるバイオデータの大量計測という背景がある。それまで、少しずつ蓄積されてきたバイオデータが2000年代に一気に大量に取得可能になり、取得された大規模データに情報解析技術を適用することが可能になった。そこで、これらのデータを解析し宿主微生物や細胞の設計に生かすことで、従来型の発酵生産で行われてきた宿主改変だけでは困難であった物質の高効率生産や機能性物質生産が可能になった。システム生物学的な見地から言うと、バイオものづくりにおける宿主改変とは、複雑な生命現象の操作と改変をめざすものである。そのためのストラテジーとしては、1)システムの構成要素の同定、2)システム内における要素間の相互作用解明、3)システムの挙動・動作状況の確認、4)設計と機能再現と4段階に分かれている。合成生物学はこの4)の部分であり、ここだけを強化したところで、1)から3)の設計に必要なステップが整備されていなければ、合成生物学の真価は発揮できないのである。つまり、合成生物学を強化するだけでは今のバイオものづくりは成り立たず、それこそが日本の立ち位置が後退した原因の一端とも言える。
しかしながら、他国より10年先行していると言われていた米国のバイオものづくりスタートアップ企業でも、近年赤字経営が問題となっている。Ginkgo Bioworksの、ピーク時に比較した株価下落率は2024年3月に90%以上に達した。それ以降も回復は見られず下落の一途をたどっており、事業内容を特定製品に特化する方針を示した。それでも経営状態の悪化は続き、3分の1におよぶ人員解雇の方針を打ち出したことが報道されている。また、Amyrisは2022年6月にCEOと取締役会のメンバーが辞任し、2023年8月に破産申請、上場を廃止した。Zymergenは2021年8月には株価が76%急落し、2022年7月にGinkgo Bioworksに買収された。これらの企業で共通している課題は運営コストの急増であり、従来型のバイオものづくり戦略では持続的産業展開が不可能であることが問題視されている。
バイオものづくりというものづくりBXは、資源循環や持続可能社会実現において重要な産業技術であるにも関わらず、その産業展開の持続性が不透明である。これを解決するものとして、米国ではコスト低減のためのAI技術の開発や大規模データの必要性、データ品質保証の重要性が認識されている。さらに前項でも述べたように、バイオものづくりを実現するためには合成生物学が必要となるが、合成生物学による物質生産システム設計には、その前段階のシステム理解が必須である。前項で記載した1)から3)のステップは、ゲノム情報やオミクス情報、最近ではメタボローム情報を統合的に解析することで実現するものであり、デジタル技術、AI技術が必須であることは想像に難くない。
これまでのバイオものづくりは、2015年に米国コロラド大学にて代謝工学における概念として提唱されたDesign-Build-Test-Learn(DBTL)cycleを中心に考えられてきた(図3)。
資料:著者作成
図3 現在のDBTLサイクル
このサイクルの中で、Buildで宿主を創出し、創出した宿主をTestにおいて大量試験し、そこから得られた大量データをLearnにおいて機械学習を主とする学習器に与え、得られた結果を元に宿主をDesignするという流れであった。DBTLの大きな特徴として、DesignとLearnの部分でIT/AI技術を活用し、自動化装置を活用したTestを実施するという点でクラシカルな発酵生産とは異なる概念であることが挙げられる。しかし実際は、従前に職人が行ってきた勘や経験則というものをロボティクスとAIによって自動化したものに過ぎない。特にLearnの部分は機械学習が基本であることから、学習データの品質やデータの無作為性が非常に重要になってくる。よって、当初の限定された宿主による物質生産では有効性が発揮できたこの概念も、新規宿主や新物質生産に必要な学習を行うためには、数世紀にわたり脈々と蓄積されてきたデータと同じだけの実験データが新規に必要になり、結局はコストがかかるという根源的な矛盾に陥っている。
米国で現在発生しているこのような問題を後追いでたどることなく、日本のバイオものづくりが国際競争力を強化するためには、問題となっているデータの品質や新しいAI技術が必要である。データ品質については、前項の冒頭に記載したバイオものづくりに関する標準化戦略が重要になってくる。ここでは、どのようなデータを獲得するかだけではなく、データ管理、データシステム統合なども規格化することが期待される。規格化されたデータを用いることが、現在問題となっているデータ品質を保証することになり、新たなAI/IT技術開発につながる。つまり、バイオものづくり産業を成功させるためにはデジタル技術基盤が必須であり、この基盤が整備されて初めて、バイオものづくりが石化資源由来の工業から転換可能となるコストの範囲に収まる可能性がでてくるのである。
バイオエコノミー戦略では、技術開発の加速のために、バイオとデジタルの融合に向けたデータ連携・利活用について、関係する施策と連携して推進することが明記されており、バイオ分野において大量データをいかに扱うかが肝要であるとわかる。しかし、バイオとデジタルを分ける必要はない。少なくとも、ものづくりBXにおいてはこれまでの工業分野が得意としてきたデジタル技術をバイオ分野に展開できるかどうかが、BX達成のカギであると推察する。
油谷 幸代(あぶらたに さちよ)
国立研究開発法人 産業技術総合研究所 生物プロセス研究部門長
2003年、九州大学大学院生物資源環境科学府・遺伝子資源工学専攻 博士課程修了。博士(農学)。同年、東京大学医科学研究所の科学技術振興特任教員、2006年より産業技術総合研究所に入所。その後、主任研究員、研究チーム長、副ラボ長、生命工学領域研究企画室長を経て、2024年度から生物プロセス研究部門長に就任。
早稲田大学理工学術院客員教授。米国科学研究名誉協会(Sigma Xi)Full member。元バイオインフォマティクス学会理事・幹事。
執筆者紹介
油谷 幸代
国立研究開発法人 産業技術総合研究所
生物プロセス研究部門長
機関誌「日立総研」、経済予測などの定期刊行物をはじめ、研究活動に基づくレポート、インタビュー、コラムなどの最新情報をお届けします。
お問い合わせフォームでは、ご質問・ご相談など24時間受け付けております。