2024年10月31日
バイオ分野においてAI(Artificial Intelligence)などのデジタル活用が進み、バイオ技術は基礎研究から社会実装へ進展しつつある。バイオ医薬や遺伝子治療などの医療革新とそれを通したウェルビーイングへの貢献、微生物の産業利用によるプラネタリーバウンダリーへの対応やサーキュラーエコノミーの実現など、グローバルな課題解決に向けた進化が期待される。
2018年の当社機関誌「日立総研」では、「バイオデータ活用が加速する産業革新」というテーマで特集を組んだ。当時は、DNA*1(Deoxyribonucleic Acid)編集技術であるCRISPR/Cas9(Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats, CRISPR Associated Protein 9)が実用化され、その結果バイオデータの価値が認識されるようになり、さまざまな産業応用への期待が高まり始めていた。それから6年、現在のバイオ技術はヘルスケア分野を端緒に、実用化を経て産業応用が進展、社会実装へと進みつつある。
本レポートでは、バイオ技術と産業応用に関する現状を踏まえ、バイオによる社会・産業変革(バイオトランスフォーメーション:BX*2)が切り拓く社会を展望する。
2012年に、CRISPR/Cas9によるDNA編集技術が発表され、バイオ研究が劇的に進展した。従来のトライ&エラー的な研究手法ではなく、DNAの塩基配列を計画的に設計し制御・操作できるようになった。我々が2018年に「バイオデータ活用が加速する産業革新」をテーマに特集を組んだ当時は、このDNA編集技術で遺伝子改変を行った微生物、動植物などの研究が相次ぎ発表されていた。
それからの6年、バイオ技術そのものの進展に加え、新たなデジタル技術の革新や社会的な要請により、バイオ技術は研究から実用化、さらに社会実装へと発展しつつある。例えばバイオ計測技術においては、DNAを構成する塩基配列を解析するシーケンサの性能は継続的に向上しており、従来の蛍光を用いた計測から電流による計測技術へと発展し、長い塩基配列を高速に読み取ることができるようになった。その結果、ヒトゲノムを1日、100ドルで、安価・高速に解析可能となっている(図1)。また、デジタル技術においても、AIにおける深層学習や生成AIなどの技術革新により応用範囲が拡大し、バイオ分野への適用が進んだ。具体的には、アミノ酸配列やタンパク質構造などの生化学データおよび学術論文を機械学習して生化学言語としてLLM(Large Language Model)が構築されている。生化学に特化したLLMを用いた生成AIは、ゲノム情報を言語として読み取り、ゲノムに含まれる遺伝子の意味や機能を解釈することで、研究者が利用可能なレベルに達してきた(図2)。社会的な要請もまたバイオ技術の社会実装を後押ししている。2019年に発生したCOVID-19パンデミックでは、ワクチンが至急、大量に必要とされるという社会的な要請に応じてmRNA*3(messenger RNA)ワクチンが緊急開発され、2020年末に接種が開始された。通常は米国でも数年以上かかるワクチンの承認が、コロナ禍における強い要請により1年以内の速さで認められた。このように現在、バイオ技術がヘルスケア分野を中心に、デジタル×バイオによるトランスフォーメーションを起こしており、今後さまざまな産業分野においてグローバル課題解決に向けたBXの拡大が期待される。
資料:各種資料より日立総研作成
図1 DNAシーケンサ解析速度の推移
資料:各種資料より日立総研作成
図2 LLM学習パラメータ数の推移(生成AIとの比較)
現在のベンチャーキャピタルによるバイオ技術スタートアップへの投資は、ヘルスケア分野が中心となっている(図3)。今後は食品・農業および化学・エネルギーの分野へと投資が拡大することが予想される。この傾向はバイオ関連産業の市場規模にも見られ、同市場が成長する2030年以降では、ヘルスケア、食品・農業、化学・エネルギーでそれぞれ同規模になると見込まれる(図4)。
バイオ医薬品のように新たな付加価値が生み出される分野では積極的な投資が行われ、生成AIをはじめとするデジタル技術の活用により研究開発期間が大幅短縮するなど、実用に向けた社会実装が進んでいる。一方、化学素材やエネルギー・燃料のように既存品(石油化学品など)を代替する分野では、既存品と同程度か、より低い価格が求められ、量産とコスト削減に向けてさらなる革新が必要な状況にある。
2章以降では、ヘルスケアにおけるデジタル×バイオによる技術革新を振り返りながら、化学素材、食品、農業、エネルギーなど他の産業分野におけるバイオものづくりの社会実装を展望する。
資料:各種資料より日立総研作成
図3 バイオ技術スタートアップへの投資(2022年)
資料:各種資料より日立総研作成
図4 バイオ産業の世界市場予測(2030年)
COVID-19パンデミックにより社会実装を果たしたmRNAワクチンであるが、基礎研究が始まってから実用に至るまで、30年の期間を必要とした。1980年代後半にRNAを薬として利用できる可能性が見いだされ、それから25年後にインフルエンザ用mRNAワクチンが初めて臨床試験された。2020年までには複数種類のmRNAワクチン候補が作られていたが、大規模な治験まではできていなかった。しかしながら2019年に発生したCOVID-19パンデミックによりワクチン開発が一気に進み、モデルナはワクチン試作から人の治験までを10週間で実施、ビオンテックはファイザーと提携して人の治験開始から8か月弱で緊急承認を得た。
基礎研究から実用研究までの期間に比べ、COVID-19が発生してからワクチン量産までの期間が大幅に短縮されたのは、mRNAを設計するデジタル技術とワクチンを量産するバイオ技術の相乗効果による。従来のインフルエンザワクチンは、ウイルスを鶏卵など専用の細胞内で増殖させ、増えたウイルスをワクチンに加工している。このプロセスではターゲットとなるウイルスを用意し、そのウイルスを増やすための細胞培養に多くの手間と時間を要していた。一方、mRNAワクチンの場合は、まずウイルスの遺伝子解析を行い、遺伝子の中で人に効果のある遺伝子配列を探索し、その結果を用いてワクチン用遺伝子を設計する。遺伝子設計をもとに、細胞を用いずに反応炉(培養炉)でmRNAワクチンを大量生産できる。このプロセスではウイルスそのものは不要で、ウイルスの遺伝子情報さえあればワクチンの設計、生産が可能である。またウイルスの遺伝子変異が生じても、変異した遺伝子情報に合わせて即座にワクチンを作り替えることができる。DNAシーケンサの性能向上、生化学LLMや遺伝子データベース、シミュレーションなどのデジタル技術、ワクチン量産技術といった、デジタル×バイオ技術がmRNAワクチンの迅速な社会実装を可能にした。
ワクチンに限らず従来の医薬開発では多くの化合物や化学反応を試すトライ&エラー方式が主流で、投資は膨らむが成功率は低くなっていた。今回のmRNAワクチンで実用性が示された、遺伝子データを用いたデジタル医薬開発では、開発期間を短縮し投資を減らして成功率を高めることができると期待されている。
多様なバイオ技術を利用してさまざまな製品を生み出すことは、バイオものづくりと呼ばれており、前述の通り、ヘルスケア分野から実用化が進みつつある。バイオものづくりのプロセスは、mRNAワクチンのように遺伝子を増やして直接利用する方法の他、遺伝子を構成するDNA(すなわち塩基配列)を設計・改変して新たな微生物を作り出し、その微生物によって有用な物質を生成させる方法があり、多くの産業分野で用いられている。後者のものづくりプロセスは、DNAを設計・改変して新微生物を作る「プロトタイプ開発」と、新微生物を増殖し微生物が有用な物質を生成する「量産工程」に分かれる(図5)。
プロトタイプ開発では、DNAの「設計」、「構築」、「検証」、「学習」という実験サイクルを繰り返し行う。「設計」では、新たな生物が有用な物質を生成するためのDNA構造(遺伝子機能や塩基配列)を検討する。「構築」は、実際に微生物へ新たなDNAを組み込む。「検証」では、新微生物を培養し、増殖に関するデータ収集や物質生成の効率を評価する。「学習」においては、「設計」したDNAと物質生成の関係を分析する。最後に「学習」結果を「設計」にフィードバックして改良を行っていく。
現状は、目的とする微生物の開発達成までにこの実験サイクルを何回も繰り返しており、開発期間が長期化している。実験サイクルの回数を減らして開発期間を短縮することが、プロトタイプ開発の課題となっている。
この課題の解決に対応するのが生化学LLMである。生化学LLMの学習データ蓄積量が増加し、AI予測精度が高まると、「設計」にかかる時間が短くなり、また「検証」における成功率が高くなる。その後の「学習」によってデータの蓄積をさらに増やすことで、次の「設計」へのフィードバックがより効果的になる。「構築」においても、AIを活用した培養制御や自動化により実験の効率が向上する。結果として、実験サイクル回数を少なくし、開発期間の短縮や開発にかかる投資を削減できる。
例えばGinkgo Bioworks(米)は、自社の実験施設からの実験データをGoogle Cloudに蓄積し、独自のLLM構築をめざしている。また、Evozyne(米)は、NVIDIA(米)の生化学LLMであるBioNeMoサービスを活用し、タンパク質関連の大規模なモデル学習にかかる期間を数か月から1週間に短縮した。
量産工程では、微生物を培養して増殖し、その増えた微生物を用いて目的とする有用物質を大量に生成する。培養の過程で期待していなかった微生物が発生したり、微生物による物質生成の過程で有害物質を産出したりするなど、予期しない不具合により微生物が減少し、生産効率が劣化してしまうことが課題となっている。対策として、デジタル技術を用いて微生物反応炉(培養・増殖もしくは生成・生産するための容器)の環境条件を最適に制御するための取り組みが進められている。具体的には、増殖の進み具合や物質の生成量に応じて最適値が刻々と変化する環境条件(反応炉における温度、圧力、酸素濃度、pH値、撹拌(かくはん)速度、原材料投入・生成物排出速度など)を、各種センサを用いてリアルタイムに計測し、AIを活用してその時の状態に適した環境制御を行うことで、量産工程における生産性と品質を高める方法である。
Pow.Bio(米)は、反応炉を培養増殖炉と生産炉に分離し、それぞれの最適条件をAIで自動調整することで、生成物の品質を安定化し、生産性を2〜5倍に向上している。
資料:各種資料より日立総研作成
図5 バイオものづくりプロセスの課題とデジタルによる対策
バイオものづくりが社会に広く実装されることにより、ものづくりサプライチェーンの構造も大きく転換すると考えられる(図6)。これまでのような石油を材料とするものづくりにおいては、まず原油をくみ出して、ナフサと燃料に分離精製し、ナフサを800℃以上の高温で分解して基礎化学品や誘導品を作る。その後、化学品を加工して部品が製造され、最終製品が組み立てられる。一方、バイオものづくりにおいては、原材料としてバイオマス(化石資源を除く生物由来の有機物資源)や二酸化炭素(CO2)が用いられる。この原材料をもとに、微生物が発酵など代謝を行うことで化学品を作る。バイオの化学品生成プロセスにおいて求められる温度は常温レベルであるため大幅にエネルギー削減が可能になり、また中間的な化学品を経ずに直接原材料から目的の化学品を生成できるためサプライチェーンを短縮でき、結果としてCO2排出量も削減できる。
このように、バイオものづくりは、原材料の変化や中間品・素材の生成過程の変化などにより、サプライチェーンのプレイヤ構造を転換する。まず、原材料の生産は、石油メジャーから穀物メジャーへ、また化学品の製造は、化学企業からバイオ企業へと代わる。さらにバイオものづくり産業では、水平分業も進むと想定される。分業される理由として、バイオものづくりに必要となる資産や開発投資が高額な点が挙げられる。そのため、バイオ企業は開発投資を抑える目的でイノベーションハブなどと連携しつつ、研究開発や設計に注力するようになる。実験設備や実験用生物など資産への投資が必要な実験作業は、受託専門の研究開発企業(Contract Research Organization:CRO)が、複数企業からの依頼をまとめて請け負う。量産では、生産のためのプロセスが短くなり必要なエネルギーも抑えられるため、巨大なプラント設備が不要になる。その結果、受託製造企業(Contract Development and Manufacturing Organization:CDMO)が台頭し、サプライチェーンにおいて重要な役割を担うようになる。
資料:各種資料より日立総研作成
図6 石油化学とバイオものづくりのサプライチェーン
このようなバイオものづくりは、医薬ヘルスケア分野で実用が先行しているが、他の産業分野においても社会実装が広がりを見せている。昨今の石油化学工業の分野では、資源国や新興国が基礎化学品の生産領域にまで参入しつつあるため、非資源国の石油化学工業は原材料である石油の購入コストおよび輸送コストという観点で競争力を失いつつある。また、鉄鋼業界では、主に製鉄プロセスにおいて大量のCO2を排出しており、環境対応の観点でCO2削減を模索している。このような背景を踏まえ、化学や鉄鋼などの製造分野で、バイオ技術の導入が始まっている。
LanzaTechは、DNA改変した微生物によりCO2からバイオエタノールを生産する技術を持ち、この技術を製造企業にライセンスすることでバイオの社会実装を進めている(図7)。化学メーカである積水化学は、LanzaTechからライセンスを得てバイオプラントを稼働している。また、鉄鋼メーカであるArcelor Mittalは、製鉄工場内で排ガスとなっているCO2を回収し、LanzaTechの技術を活用してバイオエタノールを生産するプラントを稼働している。このように、製造分野でもバイオへの取り組みが本格化している。
資料:各種資料より日立総研作成
図7 微生物ライセンスでバイオものづくりを導入する製造業
バイオものづくりは、我々の経済や産業、社会・生活の基盤として広く定着するようになると、医療の進化や健康増進、食の安全性確保などによるウェルビーイングの向上や、バイオ燃料やバイオプラスチックなどによるプラネタリーバウンダリーへの対応といったグローバル課題の解決に貢献できるようになると期待される。そして、政府の産業政策や環境政策、エネルギーや資源の安定的確保を通じた安全保障政策にも大きな変化を引き起こし、サプライチェーンの変化や産業構造の転換とともに、経済や産業にも大きな影響を及ぼすと考えられる(図8)。
ウェルビーイングにおいては、医療・健康・食料の産業分野で、バイオものづくりが課題解決に貢献できる。2050年に世界の人口は97億人に達し、そのうち65歳以上の高齢人口は約16%を占めると推計されている(国際連合*4)。高齢化が進む世界では、健康寿命(健康でいられる年齢)の延伸が課題となり、バイオ医薬品や遺伝子治療、あるいはマイクロバイオーム(人体内の微生物)による健康増進など、各種バイオ技術が求められる。また、食料の需要は2010年から2050年にかけて1.7倍になると予測されており(農林水産省*5)、食料の偏在や不足が課題となる。人工肉や機能性食品などのバイオ技術応用が期待される。
プラネタリーバウンダリーについては、化学や環境・エネルギー産業分野でバイオものづくりが課題解決を支援する。CO2などGHG(Green House Gas)排出量の増加が地球温暖化を促進しているとして、GHG削減が求められる中、バイオものづくりはバイオマスやCO2を原材料にすることで、温暖化対策の効果的な手段になると考えられる。またバイオマスを原材料とする燃料(例えば航空燃料として用いられるSAF(Sustainable Aviation Fuel))も、温暖化対策の手段として活用されている。
また、世界的に深刻化している環境問題の1つである海洋プラスチックごみ問題も、2050年には海中のプラスチックが9億4,000万トンとなり、海中の魚の総重量を超えるほどになると予測されている(World Economic Forum*6)。微生物が分解できる生分解性プラスチックの普及が望まれている。
以上述べたバイオものづくりによるウェルビーイングやプラネタリーバウンダリーなどに関わるグローバル課題解決は、各国の安全保障・産業競争力にも影響を与える。これまで石油中心だった原材料・エネルギーがバイオマスに転換するため、産油国の国力が低下し穀物輸出国の国力が向上する。また途上国は、未知の微生物などゲノムデータを豊富に持つことになり、データ価値を活かして国際社会における地位を向上できる。日本は水・森林資源が豊富であるため、バイオ技術を用いたものづくりで産業競争力を高めることが期待される。
資料:各種資料より日立総研作成
図8 バイオものづくりとグローバル課題解決
バイオの本格的な社会実装に向けた残る課題は、次の二点である。一つは、さらなる技術の確立である。研究開発期間の短縮・効率化と、量産における生産性向上、生産プロセスの低コスト化、などによりバイオ製品の価格低減が求められる。二つめは、バイオ技術利用に関する啓発や規則・ガイドラインなどのルール作りである。DNA編集を行った未知の新生物に対して、まだ社会からの受け入れが整っているとは言えない。そのため、規則を整備した上で社会受容にむけた啓発を行う必要がある。また、バイオハザードのリスクを抑制するために、先行してリスク予防・回避を検証していくことも必要となる。
我々は、DX(デジタルトランスフォーメーション)、GX(グリーントランスフォーメーション)に続く、第三の産業の柱としてBXが成長するとの認識のもと、引き続きバイオ分野の研究を進めていく。
宮ア 祐行(みやざき まさゆき)、博士 (工学)
日立総合計画研究所 研究第三部 主管研究員
日立製作所に入社し、半導体、ネットワーク、IoTの研究開発に従事。研究開発グループを経て現職。
現在、バイオの他、デジタル、セキュリティ、イノベーションなど技術戦略を研究テーマとしている。
西村 啓志(にしむら ひろし)
日立総合計画研究所 研究第三部 産業グループ 副主任研究員
製造・サプライチェーンDXや技術戦略策定などに従事し、2024年より現職。
最近の研究テーマは、バイオ技術、GX、地域経済、生成AIなど。
このレポートの研究員
宮ア 祐行
研究第三部
主管研究員
西村 啓志
研究第三部
産業グループ
副主任研究員
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