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株式会社日立総合計画研究所

社長コラム

社長 溝口健一郎のコラム

第6回:デジタルとトランスフォーメーション

 2008年初夏、私は初めてインドに出張した。日印共同開発プロジェクトであるデリー・ムンバイ間産業大動脈構想(DMIC)の覚書に両国政府が署名してから約1年半がたっていた。お土産で持ち込もうとした日本酒を巡るデリー国際空港の税関での押し問答や、空港からデリー市内までのカーチェイスのようなタクシーの乗り心地から始まったインド滞在のクライマックスは、ラジャスタン州ニムラナ工業団地訪問だった。デリーの南西約100km、車で約3時間。日本企業の多くが入居予定と聞いていた工業団地は、しかし、牧草地帯そのものだった。シンプルなロープで区画されただけの広大な牧草地に、手前に建設中の工場、その向こうに草を食んでいるラクダの姿をみて、インドと日本の時間の流れ方の違いを思い知らされたのだった。

 2014年の夏に再び訪問した時、インドでは下院議会(ロクサバー)選挙でインド人民党 (BJP)が圧勝し、約30年ぶりに与党が単独過半数を獲得していた。農業分野への手厚い補助金と電力・ガスなど公共サービス無償提供などのばらまき政策を展開していたこれまでのインド国民会議(INC)と異なり、BJPは制度改革、工業化を志向した「Make in India」政策を打ち出していた。かつてグジャラート州知事であったナレンドラ・モディ首相は、舞台を州から中央政府に移し、行政改革、汚職撲滅、工業開発拡大など、知事時代の経験を生かした抜本的なインド経済・産業の構造改革・変革を進めるとしていた。

 あれから5年。Make in India政策はインド時間の中にいる。インドのGDPに占める製造業の割合は目標25%に及ばず、これまでの17%近辺を横ばいで推移している。当時、困難と言われていた物品・サービス税(GST)を導入したものの、税制の複雑さは残り、土地収用の困難さは工場建設の足かせになっている。財政再建を優先するため、公共投資によるインフラ開発の拡大は当面望めそうにない。

 一方で、進展著しいのは「Digital India」政策である。モディ政権は「Make in India」と同時に行政サービスのデジタル化政策を進めていた。携帯電話やインターネットアクセス網の拡充に加え、国民ID、銀行口座取得を国民に義務付け、オンライン上での本人確認、行政手続き、社会保障給付を可能にした。モバイル決済の月間取引額は2014年7月が440億インド・ルピーに対して、2019年7月が5.3兆インド・ルピー(インド準備銀行)と120倍に拡大し、携帯電話利用者は10億人を超え、増加を続けている。

 政権発足直後にインドを訪問した際、企業、業界団体へのインタビューでの話題は、もっぱらMake in India政策の行方だった。当時の私はMake in India政策に気を取られ、Digital India政策の重要性を見落としていた。気が付いたのは、インドが「India Stack」の稼働を開始した2016年ごろだった。India Stackは国民ID情報に基づく個人認証、電子署名、クラウドストレージ、銀行間送金の機能を提供する行政サービスである。そして、これら機能、データは民間企業に開放され、現在、非現金決済、ライドシェア、ヘルスケアなどの分野の新興企業が利用を始めている。大きな国内市場、多くのモバイルユーザを持つインドでデータの集積と利用が進む。米国をはじめとした先進国企業のITシステム運用委託先として成長してきたインドのIT産業が、内国市場を対象としたデジタルサービス産業に変革しようとしている。

 インドでは、第2次産業の発展を経由せずにデジタルサービス産業の拡大が始まっている。インドは、ゆるやかなインド時間と動的に急速変化するデジタル時間が共存する不思議な国である。現在、Make in India とDigital Indiaはそれぞれ異なる時間の流れの中にいるが、例えば、India Stackを活用することで複雑な税制手続きや、土地収用の交渉を簡素化できれば、製造業の進出が活発化し、インフラ開発に弾みがつく。インドの工業化に貢献することができるだろう。

 そう考えると、モディ政権は、もしかして、両政策の行く末を初めから想定していたのではないだろうか、と思う。デジタルで国内産業をトランスフォームする。その狙いを既存産業の仕組みへのデジタル実装で実現するのではなく、デジタルで全く異なる産業、制度を創出し、その力を経済・産業変革推進の源として広く活用する。先行するDigital Indiaが生み出す、デジタルネイティブなビジネス、制度が、やがてMake in Indiaに前向きな変化をもたらし、広範な産業変革をインドにもたらすのではないかと、私はひそかに思っている。