社長 溝口健一郎のコラム
10カ月ぶりにワシントンDCに“里帰り”した。日立総研が新年度にフォーカスすべき研究テーマの検証が主な目的であった。ちょうどプレジデントデー(今年は2月19日)に毎年販売開始になるホワイトハウスのクリスマスオーナメントを入手できたのは幸運であった。2030年に向けて、地政学情勢のシナリオはどう描きうるか、世界のエネルギートランジションはどう変遷するか、主要地域別の成長領域と価値創造のあり方はどうなっていくか、生成AIの社会実装が急速に進展することでサービス提供の形はどう進化するか、バイオ技術由来の産業や製品がAIによってどう加速するか、企業の無形資産が資本市場に占める割合が拡大する中その活用方法はどうあるべきか、などが候補となっている研究テーマである。ワシントンとニューヨークで数多くの有識者や専門家に会うことができ、多様で貴重な示唆をもらった。
ほとんどのミーティングで話題に出たのは11月の米国大統領選についてであった。いわく、トランプで決まりだ、いやバイデンのチャンスの方がまだ大きい、バイデンが辞退するシナリオもある、実は副大統領候補をハリスから変える戦略が検討されている、第三政党こそが今回はカギを握る、などなど。米国大統領選占いは地政学業界の一大イベントと言えよう。トランプ大統領復活の場合、外交分野で大きな影響が出るというのはほぼ一致した見方である。特に二つの戦争に対する米国の関与が大きく変化し、環境問題への取り組みも180度方向転換することで、欧州にとってはトラウマになるような影響が出るであろう。アジアへの影響は比較的小さいと見られ、また、日本のリーダーシップへの期待はあちこちで聞かれた。経済面では、米国中心主義はトランプからバイデンに引き継がれており、トランプが大統領に戻っても激変はないだろう。米国における投資拡大、雇用創出、先端技術の流出防止というアプローチはもはや民主党と共和党が共有している。税金のかけ方は大統領で差が大きいが、これは議席数で僅差になるであろう議会が歯止めとなって極端な政策は実現しにくい。
一つ米国の変化で気にしておくべきは三権分立の揺らぎだ。2022年6月に米国最高裁は、人工妊娠中絶を合衆国憲法で保障された女性の権利とする1973年のロー対ウェイド判決を破棄した。これによって中絶の合法性は州ごとに異なることとなった。トランプ政権時代に3人の最高裁判事が指名され、9名中6名の判事が保守派となったことで、この判断が実現した。司法判断の変化は米国社会に広く長く影響を及ぼす。今後、司法判断が問われる大きな問題がシェブロン法理に関する最高裁判断だ。1984年のシェブロン判決は議会で成立した法律の曖昧性について行政機関の解釈権を認めているが、これが今年の6月に最高裁で覆る可能性がある。その場合、法律の内容に曖昧さが残っていたとしても、行政が細部の判断・決定をすることが困難になる。例えば、リーマンショック後に財務省がドット・フランク法をアクティブに解釈し対応を図ったが、そのような迅速な対応が困難になるかもしれない。トランプ大統領が復活した場合、司法への関与を拡大することが予想され、さらにもし在任中にもう1人最高裁判事が交代することになった場合には、米国社会に極めて大きい影響となるだろう。
経済面では米国の最強の座は揺るがない。多様な人財、エネルギーの自給、食糧生産能力、イノベーションの力、基軸通貨の堅持、労働生産性の大きな改善など、the rest of the worldなしでもやっていけるのは世界でアメリカのみである。社会の分断が激しさを増している米国だが、その経済基盤は盤石で、有り余る投資資金がその変革を支えている。しかし社会の分裂が将来改善に向かうのか、経済にまで悪影響を及ぼすのかは予断を許さない。初代大統領ジョージ・ワシントン政権下で「連邦派(フェデラリスト)」と「共和派(リパブリカン)」により政党政治が始まった。共和派の象徴的存在であったトマス・ジェファソンは、連邦派の現職大統領ジョン・アダムズを破って第3代大統領となった。その就任演説でジェファソンは米国を「世界最善の希望(The World’s Best Hope)」と呼び、「意見の相違は必ずしも原理の相違であるとは限りません。我々は異なった名で呼び合ってきましたが、みな同じ原理を奉ずる同胞であります。我々は全員リパブリカンであり、我々は全員フェデラリストであります」と演説した。米国が今も世界最善の希望であり続けているのかは意見が分かれるところだろうが、全世界の命運を米国が握り続けることは間違いがない。