社長 溝口健一郎のコラム
昨年と今年東京にいたことの大きな幸運は二つのマティス展を体験することができたことであった。昨年の春から夏にかけて東京都美術館で「マティス展 The Path to Color」が開催され、今年の春は国立新美術館で「マティス 自由なフォルム」が開催された。「色彩の魔術師」とも称されるアンリ・マティスによる色表現のめくるめく変遷と、絵画から彫刻、切り絵に至る世界の捉え方の変容を楽しむことができた。
マティスは20世紀の最重要芸術家の一人だが、絵画に目覚めたのは21歳の時と遅咲きだ。法律を勉強していた1890年に虫垂炎を患い、長期療養している際に母親に暇つぶしにと絵の具箱を贈られたことが人生の転機となった。パリに移ってギュスターヴ・モローに師事し、セザンヌなど印象派を含む多様な様式を学びつつ「読書する女性」(1895)など暗い色調の伝統的ともいえる作品を発表する。1905年には南仏コリウールで過ごし、そこで制作した作品をサロン・ドートンヌに出展し、「帽子の女」(1905)など伝統を無視した大胆で荒々しい色使いからフォービズム(野獣派)と称された。しかし、フォービズムの時代は早々に終わり、「豪奢I」(1907)の田園風景では色使いは落ち着きつつも伝統的な美の概念が崩壊したかのような構図を提示した。「赤い調和」(1908)や「ダンス(I/II)」(1909/1910)では色彩によって空間や運動が異なる次元を見せている。
自らの成果を次々と新たな創造によって塗り替えていくマティスからわれわれが学べるのは「アート思考」かもしれない。0から1を生み出す、自分目線の発想で、起こりそうもないはずであった市場や技術やサービスを創造するのがアート思考である。対してデザイン思考はユーザ目線で課題解決をめざす。デザイン思考は効率的で独自の解決策提案を可能にするが、ややもすれば単線的な将来像を示すにとどまりかねない。アート思考は非効率的で大外れする場合もあるが、全く新しい世界を創造できる可能性がある。今後、単線的な課題解決はAIの助けによってどんどんコモディティ化すると見込まれ、企業の価値創造にとってアート思考がより重要になっていくだろう。アート思考のワークショップでは、貢献、逸脱、破壊、漂流、対話、表現という工程でImprobable (起こりそうもないこと)を見つけていく。まさに、逸脱して漂流して以前の芸術にはない表現を創造していくマティスのようではないか。
マティスは、第1次世界大戦勃発以降さらにラジカルな作品を生み出していく。繰り返し窓が描かれるが、「金魚鉢のある室内」(1914)では全体を支配する青と金魚の赤が安定と不安定の相克を示し、「コリウールのフランス窓」(1914)で窓の外は黒く塗りつぶされ、戦争の時代を暗示する。1918年にマティスはニースに拠点を移す。ニース時代には空間配置の点でも現実の描写の点でも伝統的絵画の手法に立ち戻る。「赤いキュロットのオダリスク」(1921)では女性の裸体と部屋や着衣の色彩が緊張ある調和を見せている。1930年代には、マティスは米国と仏(ふつ)領ポリネシアを旅し、ニースに戻ってダンスを主題にした幅13メートル、高さ3.5メートルの大壁画「パリのダンス」(1931-33)を制作する。第2次世界大戦が始まり、1940年にはドイツ軍によってパリが占拠されるがマティスはフランスにとどまった。1941年に腸の疾患が悪化し大手術を受けて生還する。「黄色と青の室内」(1946)や「赤の大きな室内」(1948)によって光としての色彩の独自の感性を油彩画で見せる一方、切り絵を新たな表現方法として開拓していく。青い格子の背景を白抜きの魚や海藻が漂う「ポリネシア、海」(1946)、星空を背景に赤い心臓を持った黒い人影が踊る「イカロス」(1947)、白地に青い「ブルーヌードIV」(1952)、壁一面に広がる「花と果実」(1952-53)など切り絵による自由なフォルムを次々と発表し、色彩とデッサンの融合を提案し続けた。
1948年から1951年にかけてのマティスの4年間は南仏ヴァンスのロザリオ礼拝堂を制作することにささげられた。ステンドグラス、礼拝堂の壁画、告解室の扉、祭壇のキリスト磔刑(たっけい)像、司祭が着る上祭服に至るまでをデザインした。「全生涯の仕事の到達点」(マティス)である。 84歳の生涯でマティスの世界は大きく広がり、その色彩世界は今もまだ新鮮でその構図とフォルムは自由さと浮遊感を与え続けている。アンディ・ウォーホルは、人生に何を望むかと聞かれて「マティスになりたい」と答えたという。マティスになりたいと願いながらアート思考を追求すれば、経営者や起業家にも新たな市場を創造する喜びが訪れるかもしれない。