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株式会社日立総合計画研究所

社長コラム

社長 溝口健一郎のコラム

第7回:デジタルとユーザビリティ

 私はたまに、財布を持たずに家を出てしまうことがある。週末の私服のポケットに入れたままだったり、通勤かばんを替えたのに財布は前のかばんの中だったり、前夜に意識がおぼろげながら、財布を家のどこかに置いてしまったり、と理由はいろいろある。これに加えて通勤定期券を忘れていると、駅で切符が買えず改札口で困ったことになり、家に急いで引き返すことになる。そうでない場合は、定期券で電車に乗り、会社に出勤してから財布がないことに気が付き、そのままお昼はおあずけになるのだった。

 しかし財布を忘れても、しまった、と思うことが最近少なくなってきたように思う。今は手元にスマホさえあれば、近くのコンビニに行って非現金決済を使って、当座をしのぐことができる。そういえば、最近財布の中に入れている現金が少なくなってきたような気がするし、ATMに並ぶことも減ったような気がする。電子マネー、QRコード決済さまさまである。

 電子マネーという言葉を約四半世紀前に初めて聞いた私にとって、最近の非現金決済の普及拡大には隔世の感がある。電子マネーとは何だろう?当時、イギリスの金融機関が、ICカードに貨幣価値を入金(チャージ)して、少額支払いをするサービスを開始していた。社内で調査団が結成され、先方の開発者に会って話を聞くという。私はその調査団に参加した。運用を開始したばかりのサービスは、素晴らしかった。銀行口座からATMを使ってカードにお金を電子的に入金する。小銭が不要、財布が不要。両端にカードの差し込み口を持つ電卓のような端末を使えば、その場でカード間の電子マネーのやり取りができるし、カード差し込み口を持つ電話機を使って、地域を越えた送金もできる。お金を電子データに変えることで、支払い行為を物理的な制約から解放するという考えに感動、賛同したのだった。

 しかし、結果として、そのサービスは普及しなかった。まず、先進的な構想・仕組みに当時のエレクトロニクス技術が追従できていなかったのは明らかだった。カードのICチップに入金した電子的な貨幣情報は複雑な公開鍵暗号技術によって守られていたが、その計算と取引処理をICチップに搭載した8ビットマイコンにさせるのは酷な話であり、支払い開始から終了に約8秒かかっていた。やがて、インターネットが普及して、今度は通信技術が構想に対して先行しだすと、電話回線での送金というサービスは便利というより、微妙な感じになっていった。端末やシステムにはロンドンの金融機関を中心に設立された運営母体による認定が必要で、そこに多大な認定料を課金するビジネスモデルも問題だった。回収を優先する金融機関と、サービスが普及する前に先行開発投資が膨らむシステム開発企業との間で軋轢(あつれき)が生じてもいた。

 結局、ロンドンの金融機関は、日々の決済行為を電子化するものの、人々の生活習慣、商慣習や金融サービスモデルを根本的に変革することよりも、これまでの商圏、収益源を守ることにこだわり続けたし、参画企業は、技術的優位性に視点を置きすぎて、「支払い時間8秒」という致命的と言える問題に目が向いていなかった。あるいは、認識していたが、8秒を4秒くらいにすれば大丈夫だと思っていたのかもしれない。

 一方、QRコードを使った現代の非現金決済はどうだろうか。堅牢(けんろう)性の高いICチップは使わないし、ICチップ、端末やシステム間の複雑な決まり事もなさそうにみえる。セキュリティは大丈夫だろうかと少々不安になるが、マイクロ秒で支払いが完了する簡単・便利なサービスは急速に普及拡大している。つまり、当時の金融機関や私たちは、ユーザへのサービス価値提供という視点をどこかに置き去りにしていたのだった。もちろん、お金に関わることであるので、安全性が重要であることは言うまでもないが、要は技術、使い勝手のバランスなのだ--今だからこそ、冷静に問題点を分析できるが、すべては後の祭りである。

 これまで金融は、経済・社会活動に対して潤滑油の機能を担ってきた。個人が家やクルマを買う、企業が設備投資を行う、モノを売り買いする、ここに適切な金融サービスを提供してきた。今後はどうだろう。個人の関心はモノからコトへと移り、企業経営では資金流動性などの財務リスクに加え環境リスク、社会リスクへの対応重要性が拡大していく。ここにおいて金融の発揮すべき機能は何か。それを考える上でも、安全技術と使い勝手の良い仕組みとのバランスをとり、ユーザにサービス価値を提供していく、という視点が重要になるということだろう。


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