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株式会社日立総合計画研究所

社長コラム

社長 溝口健一郎のコラム

第10回:デジタルとプログラム

マイクロソフトの名前を初めて知ったのは、40年くらい前だった。校内の物理実験室にあった卓上型の国産マイクロコンピュータ(マイコン)の電源をつけると、画面の上部に「Copyright 1979 (c) by Microsoft」と出る。当時、マイクロソフトは、マイコンに搭載するプログラミング言語「BASIC」のソフトウエアを提供していた。憧れのアップルのマイコンAppleⅡにもBASICが搭載されていたので、多分電源をつければ、同じようにマイクロソフトの名前が画面に出たのだろうが、大変高価なAppleⅡは秋葉原の電気街のショーウインドー越しに眺めるしかなかった。

厳密にいえば、マイクロソフトはインタープリタという、BASIC言語で書いたプログラムをマイコンのCPUが読める機械語に翻訳し、実行させるソフトウエアを提供していた。国産マイコンであってもやはり高価で買うことができなかった私は、物理部に入り、放課後物理実験室にある実機を触り、BASIC言語でプログラムを書いて実行させたりして、悦に入っていた。

しかし、8ビットCPUが駆動するマイコンで、BASIC言語で実行できるのは、描画や簡単な数字や記号を使ったゲームくらいで、インベーダーゲームのような本格的なゲームソフトウエアを実行するには無理があった。言語を翻訳しながらプログラムを実行するため、せっかく作ったグラフィックスは画面をちらちらさせながら、ゆっくりと、ただよう様にしか動かなかった。そこで、悪戦苦闘しながら機械語でプログラムを作るのだが、結果はマイコンを暴走させるばかりでぼうぜんとするのだった。

大学に入ると、マイコンはパソコンに名前を変え、16ビットのCPUで動くようになっていた。卒業論文に使うマクロ経済データ分析をするために、コンピュータルームのパソコンの電源をつけると、また、マイクロソフトの名前が画面に出てきた。今度はディスクオペレーティングシステムというパソコンのOSをマイクロソフトは提供していたのだった。

そして、社会人になり、私は憧れだったアップルのPowerBookを購入した。CPUは32ビットになっていた。一つの課にパソコンが1台置かれているような職場に、私は自分専用マシンとしてPowerBookを持ち込もうとしていた(今から思えばのどかな時代だった)。グラフィカルユーザインターフェースを備えたパソコンには、文書を作成したり数字を集計したりする便利なアプリケーションソフトが存在していたが、供給元はマイクロソフトだった。

その後、インターネットが登場し、コンピュータの構成が集中処理から分散処理型のクライアントサーバシステムになり、やがてマルチメディアという言葉がもてはやされ、携帯電話の普及が進んだ。2000年代に入ると、固定・無線通信インフラの高速化とともに、どこででもネットワークサービスが利用できる環境が整った。

今、在宅で仕事をしている私の手元には、スマートフォンが2台、タブレットが1台、ノートパソコンが2台動いている。全てネットワークにつながっていて、画面上で動いているプログラムは、手元の機器の上で走っているのか、あるいはネットワークの向こう側のクラウド上のどこかで走っているのか、判然としない。日々、メールやメッセージが飛び込み、情報を収集するためにネットワークを徘徊(はいかい)していると、画面上にお薦め情報が出てきて、はっとさせられることがある。

昔の独立型のコンピュータは手元か、あるいはなんらかの線でつながっていても把握できる場所にあった。そして、プログラムはそのようなコンピュータの中で世界が閉じていたのだが、今はコンピュータのプログラムとネットワークサービスと情報は混然一体となっていて、どこまでが自分の世界で閉じているのかがはっきりしない。しかも、プログラム自体が、サービスの裏側で走っているものもあり、だれが作ったものかも、分からなくなってきている。万が一プログラムが暴走しても、リセットボタンを押す場所も分からない。

私たちは、これから、デジタルシステム・サービスの信頼性をどのように確保していけば良いのか。ワーク&ライフのデジタル化が加速するとともに、私たちは知らずのうちにプログラムへの依存度を拡大させていく。各国・地域で、データ利活用やAI・プログラムの開発ルールに関する議論が進むが、少なくとも、プログラムを作る側にも使う側にもリテラシー(適切に理解、利用する知識)がますます求められることになるのは間違いないだろう。