研究活動などを通じ構築したネットワークを基に、各分野のリーダーや専門家の方々と対談
90年代後半の通貨危機を経てアジア経済はその後も成長を続けていますが、所得格差や「中所得国の罠(わな)*」などの課題もあります。今回は、アジア開発銀行の総裁としてアジアの開発支援や貧困削減に取り組んでおられる中尾武彦氏に、今後のアジア情勢、アジアにおける日本の在り方、さらには日本企業がアジア発展のために果たすべき役割についてお話を伺いました。
アジア開発銀行総裁、元財務省財務官
略歴
1956年 3月、大阪府生まれ
1978年 3月、東京大学経済学部卒業
1978年 4月、大蔵省(現・財務省)入省
1982年 6月、米カリフォルニア大学バークレー校経営大学院修了
その後、大阪国税局泉大津税務署長、証券局、主税局、国際金融局の課長補佐、
国際通貨基金(IMF)政策企画審査局審議役、銀行局金融会社室長、国際局国際
機構課長、財務省主計局主計官(外務、経済協力、経済産業係担当)、国際局開
発政策課長、在米国大使館公使、財務省国際局次長などを歴任。
2009年 7月、国際局長
2011年 8月、財務省財務官
2013年 4月、アジア開発銀行総裁
著書に「アメリカの経済政策」(2008年、中公新書)ほか、論文(日英)多数
川村:中尾さんは、大蔵省(現在の財務省)に入省後、証券局、主税局、主計局、国際局、国際通貨基金、在米国大使館などを歴任されてきました。そもそも大蔵省で仕事をされようとお考えになったきっかけをお聞かせ下さい。
中尾:大学でマクロ経済学、中でも国際金融を勉強していて、大蔵省では、国全体のことについて理屈っぽく考えながら働くことができるのではないかと思いました。縁あって大蔵省に採用されたので入省しました。その後、政府の中で仕事をしていて、多くの人の意見と違うかもしれませんが、大学での勉強が思った以上に役立つと感じました。例えば、政府がどういう場面で市場に介入すべきか、また、どういう役割を果たすべきかについてです。経済学では、外交、警察、道路や橋などを「公共財」という概念で捉えます。すなわち、社会全体に便益があって個人からの料金徴収が難しい部分については、政府が税金を元にサービスを供給する必要があると考えます。また、教育など厳密には公共財とは言えないようなものについても、広く社会への「外部経済効果」があったり、社会政策上あるいは公平の観点から必要なものは、どこの国でも政府が責任をもって供給したり、補助したりしています。主計局では経済産業省、外務省の担当でしたが、なぜこの事業を政府が後押ししなければならないか、なぜ市場に任せておけないのか、を常に考えていました。例えば、中小企業の支援は、公平性のためなのか、市場にだけ任せると情報の非対称性や大企業との交渉力の違いなどから効率性を損なう、別の言い方をすると経済成長を妨げる面があるのか、といったことです。国の政策については、予算や税制についても、国際金融についても、経済理論を前提に整理することがとても有用だと思います。
川村:現在、総裁をされているアジア開発銀行では、2008年に策定された長期戦略枠組み「ストラテジー2 0 2 0」において、貧困を削減して生活の質を改善することを最終目標として掲げています。アジア開発銀行はどういう役割を果たす機関なのか、あらためてご紹介いただけますか。
中尾:アジア開発銀行は、1966年に日本、米国が主導し、アジア・太平洋諸国および米州や欧州の域外の国が一緒になって設立した国際金融機関です。67の加盟国・地域のうち欧州や米国を含む19カ国が域外国、48の国・地域がアジア域内国で、アジア域内国には日本やオーストラリア、ニュージーランドなどの先進国も含まれます。アジア開発銀行は、もともとアジアの途上国への貸し付けによってインフラを整備し、これを通じて各国の開発、経済成長につなげていくことを中心に取り組んできましたが、貧困削減を特に強調するようになったのは1 9 9 0 年代以降です。今、アジアの約35億人のうち約7億人は1日当たり1.25ドル以下の収入で暮らしています。そうした人たちの貧困削減に役立つための取り組みがアジア開発銀行の最も重要なテーマとなりました。保健や教育、弱者保護、それらのための能力構築など、広い意味での貧困削減につながる社会分野が重要性を増しています。一方、電力や道路、鉄道、港湾といったインフラ整備が引き続き重要であることは言うまでもありません。貧困削減というより経済開発を助ける施策と思われるかもしれませんが、アジア諸国、日本や他の先進国の経験を見ても、電力網や道路、港湾などの整備は、経済発展の基礎となり、それが徐々に国民に豊かさをもたらし、貧困を削減する効果を持っています。また、道路がなければ、教育を受けたり、病院に行ったりすることも簡単にはできません。最近は女性の社会進出を促進することが重要なテーマになっていますが、女性が近くの町に働きに出て独立した稼得能力を得るためにも、道路や電化などのインフラ整備が不可欠です。アジアの国・地域の中には低所得の状況から脱却して中所得国に移行しつつある国がたくさんあります。中所得国では高齢化対策、教育やインフラの品質向上、環境に配慮した住みやすい町づくりなど、低所得国とは違う課題が生じます。そうした国・地域はインフラ整備のための資金をある程度自分たちで調達できるため、資金以外に知識、ノウハウの供与がより重要な要素になっています。われわれはドル建てで貸し付けるので、こういった中所得国にとっては、知識やノウハウの付加価値がないのであれば、自国通貨建ての債券市場から資金を調達する方がアジア開発銀行から借りるより良いということになりかねません。そういう意味で、アジア開発銀行が中所得国向けにようなサービスを提供できるのかも、今後の大きな課題の一つです。私が総裁になってから、あらためて既存の課題、新たな課題に対する戦略的な取り組みを整理し、「ストラテジー2020の中間的レビュー」をこの春に取りまとめて発表したところです。
川村:そうなると、技術協力のようなことも要求されるようになるのでしょうか。
中尾:技術協力、いわゆるテクニカル・アシスタンスは、低所得国についても中所得国についても、アジア開発銀行の設立当初から、最も重要な機能の一つです。インフラ・プロジェクトの準備、教育、医療、財政運営、環境保護など、非常に広範な分野でテクニカル・アシスタンスを提供しています。日本の高速道路建設の際に、世界銀行が貸付を行いましたが、高速道路のカーブの設計に関する世界銀行のノウハウが当時の日本にとって役立ったように、プロジェクトの実施自体の中にも技術協力的な要素が含まれています。
川村:技術協力の手前にある金融について、今、アジア開発銀行として特に考慮されていることはどんなことでしょう。
中尾:アジア開発銀行の融資は、証券を発行して調達した資金をコスト分のスプレッドを載せた金利で貸し付ける毎年の新規承諾額約100億ドルの通常資金枠と、日本などからの拠出金を原資として低利・長期で貸し付ける毎年の新規承諾額約30億ドルの特別基金枠から成り立っています。しかし、アジアではインフラ整備のために毎年8,000億ドルぐらいの資金が必要という試算もあり、各国の政府資金や内外の民間資金がまず大きな役割を果たすべきことはもちろんです。したがって、アジア開発銀行の融資は、開発への誘発的効果を高め、他の資金を動員することも大きな目標です。一方、大きく成長するアジア、その資金需要に対して、アジア開発銀行が従来と同じ貸付規模だと、相対的に役割が低下してしまいます。どのように貸付能力を高めるかが一つの課題になっています。
川村:インフラ整備により多くの資金が必要とされていることとも関係しますが、最近、中国がアジアインフラ投資銀行(AIIB)*を設立するという報道がありました。これについてどういうお考えをお持ちですか。
中尾:最近、その質問が非常に多いです。中国がアジア開発銀行などから支援を受ける一方で中国主導の国際金融機関を設立しようとする動きについては、やや冷淡な見方、警戒する見方もありますが、このような動きが出てくる背景は理解できます。アジアには大きなインフラ需要があり、膨大な資金が求められる中で、アジア開発銀行の資金には限りがあります。また、中国は大きな外貨準備を持っていて、国際金融の面でより大きな役割を果たしたいと考えています。ただ同時に、アジア開発銀行という国際金融機関が既にあるのですから、中国もメンバーとして支えてほしいと思います。この点に関し、中国の当局者は、AIIBはアジア開発銀行のライバルではなく、アジア開発銀行の機能を補完するような銀行だと繰り返し言っています。また、調達や環境、社会への配慮などの点で、アジア開発銀行はインフラ投資案件に対して非常に高い品質水準を設けていますので、新しい銀行も国際金融機関としてそうした点を重視する必要があります。中国自身の輸出入銀行や開発銀行も途上国向けの貸付を既に大規模に行っていますが、環境面や社会面での配慮をもっと厳格にするように、国際的に求められています。
川村:二つの国際金融機関が並び立つようになったとき、アジア開発銀行が打ち出せる特徴はどのようなものになるでしょう。
中尾:まず、アジア開発銀行は長いアジアの途上国との関係を踏まえて、貸付のためのよいプロジェクトを一緒に見つけていく力があります。中国が主導する開発銀行の貸出規模はアジア開発銀行ほど大きくならないと思います。また、アジア開発銀行は国際信用格付け機関からトリプルAの評価を受けているため、比較的安い金利で資金を調達し、それにコストをカバーするスプレッドを載せても、リーズナブルな金利で貸し付けることが可能です。さらに、アジア開発銀行はノウハウも合わせて供与するなど、さまざまな付加価値を付けることができると考えています。
川村:安価な労働力を活用した輸出を背景に中所得国となったアジア諸国も増えました。しかし、中長期的な経済成長のためには技術革新や生産性向上が欠かせず、先進国入りを前に経済成長が停滞する「中所得国の罠」にはまる懸念も指摘されています。中国やマレーシアなどの中所得国が「中所得国の罠」にはまらないための課題についてはどのようにお考えですか。
中尾:韓国の場合、先進国のクラブであるOECDのメンバーにも入っており、「中所得国の罠」を回避できたと思っている人が多いと思います。1人当たりG D Pは2 0 1 3 年において日本の3万8,500ドルに対し、2万4,300ドルに達しています。シンガポールや香港も同様に高所得国になっています。しかし、これからは多くの中所得国が先進国になろうとしても、なれない国・地域も出てきます。ちなみに、ラテンアメリカ諸国は、ある時期までは、相当所得が高かったのですが、その後1980年代の債務危機などで停滞し、現在も高所得には至っていません。「中所得国の罠」は、こうしたラテンアメリカによく当てはまる概念であり、これからのアジアにそのまま当てはまるのかは、まだ分かりません。1人当たりGDPは、日本や欧米の伝統的な先進国では為替レートにより多少変動しても大体ドル建てで4万ドルから5万ドル程度ですが、今中所得国と呼ばれているところは千数百ドルから1万ドルぐらいまで大きな差があります。IMFの統計によると、2013年に中国は6,700ドル、インドが1,500ドル、インドネシアが3,500ドル、フィリピンが2,800ドル、タイが5,600ドルです。こうした国々が中所得国ですが、中国はどちらかというと所得の高い中所得国で、インドは所得の低い中所得国と言えます。中国のような高中所得国だと、インフラの効率や教育水準を上げて、環境問題、少子高齢化、社会保障、都市化などの問題にも適切に対処することが課題となります。成長を続けると同時に、その成長の成果をより幅広く社会で共有するようにしなければ、政治的な不安定要素が拡大するという認識も大事です。一方、インドのような低中所得国には、まだまだ多くの基本的な課題があります。特にインフラが決定的に不足しているので、まずは電力網や道路の整備をさらに進めるとともに、小・中学校教育の質の向上、職業教育の強化、貿易や投資の環境の一層の整備などに注力することが課題になります。
川村:中所得国といってもレベルによって課題が異なりますね。
中尾:そのとおりです。中所得国には、各国に似通った課題もありますが、発展段階やその国の状況に応じてそれぞれ異なる課題もあります。多くの国が中所得国になっているアジアにおいて、「中所得国の罠」に陥らずに乗り越えていける方策をわれわれも一緒に考え、それに応じてアジア開発銀行の支援を実施していく必要があると思います。
川村:われわれにとって一番関心が高いのは、中国が本当に民の力をきちんと引き出して、今後1人当たりのGDPを2倍にも3倍にも増やしていくのかどうかということです。まだ時間がかかるし、難しいのではないかという気もします。
中尾:これまでの中国の成果には目覚ましいものがあり、改革開放以来、高い成長を続けてきています。日本は1990年初のバブル崩壊以降、せいぜい1%程度の成長率でデフレにもなっていましたから、名目GDPは円建てで見てほとんど伸びていませんし、ドル建てで見ても、5兆ドル程度を上がったり下がったりして、そんなに伸びていません。一方、中国実質成長率は最近低くなったとはいえ7.5%程度あり、名目成長率では10%以上あります。ドルに対して人民元は切り上がっているので、ドル建てのGDPはすさまじい勢いで伸びています。10年前には日本の半分程度のGDP規模というイメージを持っていましたが、今は2倍近くになっています。シャドーバンキング*や地方財政の問題が取り沙汰されていますが、発展、成長が著しい中で、そうした問題は絶対額をうまく抑えておけば全体の経済に対する比重は下がっていきます。実際、まだまだ政府の経済へのコントロールが強い中で、経済的な諸問題に対応していく能力が中国にはあると思います。昨年秋の中国共産党中央委員会(三中全会)では、政府のコントロールではなく市場の機能を中心に据えるということを基本に、社会保障の充実、地方と都市の格差縮小、土地使用権の尊重、国有企業の改革や金融セクターの自由化を進めるといった改革案が出されました。大変正統な改革案であり、これを段階的にでも実施できれば、直面している課題を、大きなショックを避けながら乗り越えていくことができると思います。ただ、より長期的には、1人当たりGDPが日本やアメリカのレベルに追い付くところまで行くのかどうかについては、議論の余地があると思います。これから高齢化の問題も顕在化してきます。環境や社会格差の問題も簡単ではありません。キャッチアップする過程では先進国のモデルや技術を効率的に活用できますが、一定のレベルになると、独自の発展モデルや技術が必要になります。
川村:コンポーネント開発やシステム開発も含め、自ら技術を開発するというのは、やはり大変なことです。先進国から技術を持ってくる時代の次がやはり大変で、日本もまだそこで苦しんでいる部分もありますから、これから中国がそれをするというのは、相当大変だと思います。中国人の方が日立に来ると、中央研究所や基礎研究所などの研究開発部門を一生懸命見ています。どのようにして研究開発をするのか、これだけ人をかけて何をして、この見返りはあるのかどうかと。20年前は、世界銀行から借り入れた資金で新幹線を造ってどのように返済したのかといった投資回収について盛んに聞かれましたが、最近は研究開発の話題が多くなっていると感じます。
中尾:日立は、明治時代末期に技術者である小平浪平さんが創業者で、久原房之介さんが立ち上げた鉱山会社の一部分から始まったと記憶しています。日本には、日立に代表されるような、長い資本主義の伝統がありますが、中国は社会主義の時期が長かったですし、その前も産業資本重視というよりは商業資本的なところがありました。日本は江戸時代からの、清廉を旨とする武士道、お客様本位の商人道、完璧な仕事にこだわる職人道に加え、明治以降は産業資本を重視してきた強みを持っているように思います。一方、中国も最近では清華大学関係のベンチャーに象徴されるように、研究開発の分野に力を入れ、思いのほか速いスピードでさまざまな技術開発が進んでいるような気がします。
川村:分野によりけりですけど、かなり進んでいる部分もあります。
中尾:太陽光発電などの分野がそうですね。
川村:ある程度方向の決まっているものを改良していくところは随分出てきました。ですから、将来さらに技術開発を強化できるのか、どちらに転ぶかで随分と国の方向が違うと思います。
川村:日立でもさまざまなテーマで従業員の能力育成や人財開発に取り組んでいます。アジア開発銀行にはさまざまなバックグラウンドを持った人が集まっていますが、そうした多様な職員の人材育成についてどのように取り組まれていますか。
中尾:アジア開発銀行には約3 , 0 0 0 人の職員がいます。1,050人程度がいわゆる専門職で、その15%が日本人です。もちろん米国人や中国人、インド人、イタリア人など、いろいろな国籍の人がいます。国籍は非常に多様ですが、想像していた以上にアジア開発銀行という組織に対して忠誠心があると感じています。総裁が日本人だから嫌だというような感じももちろんありません。そういう意味で団結力が強い組織だと思います。採用は中途採用がほとんどですが、プロフェッショナルな部分できちんと基準を設定して採用する、メリットに応じて昇進させるということも徹底させています。アジア開発銀行の本部が置かれているマニラにわざわざ来る人たちは、専門性を生かして開発に貢献したいというモチベーションがもともと高く、それに加えて国際機関で国の枠を超えて働きたいという気持ちが強いので、それを大切に育てていくことが大事だと思います。どこの組織も成長期にはポストが増えますが、安定期に入るとポストは増えません。そういう中では、スキルを持っている人を評価し、優秀なやる気のある人をきちんと登用するタレントマネジメントが一番重要です。最近は、どこの会社もそうだと思いますが、女性の採用、登用も積極的に行っています。専門職の約3分の1は女性ですし、年によっては新規採用の半分が女性ということもあります。日本人の女性も、日本や外国の銀行、エンジニア会社や国際協力機構、国際協力銀行、国連機関などの経験を持つ43人が専門職で活躍しています。能力主義をベースにしながらも、一定のダイバーシティに配慮しなければ長期的には組織の活力にも影響します。
川村:日本では年功序列の意識がまだ強いので、やりにくいことがいろいろあるわけですが、おっしゃったようなメリットベース、能力ベースの評価に切り替わっている途中です。かなり意識的に切り替えようとしている会社もたくさん出てきています。
中尾:年功序列で一緒に昇格するというのは、団結力が強まり、会社に貢献しようという意識につながります。会社としても実践しやすいということもありますから、特に日本の高度成長期には合理的な仕組みだったと思います。しかし、会社や組織の成長余力が小さい時期に、本当に頑張って成果を上げた人と成果を上げていない人を同じように扱うと、不公平感が強まるし、結局は組織の活性化、成長を妨げることになります。
川村:話を少し大きくして、日本の役割についてお伺いします。アジアのインフラ事業における日本の役割、あるいは日本企業の役割について、どのようにお考えになっていますか。
中尾:日本企業は非常にいいものをつくっています。例えばインフラの整備においても、新幹線に象徴されるように高品質のものをつくることができます。このように革新的な技術を持っているわけですから、アジアのインフラ開発に役に立つことはたくさんあります。しかし、現状では価格が高いため、競争入札を行うとなかなか勝てないというのが現実です。ですから、技術的に高水準を維持しながらも、価格競争力を付けることが求められます。アジア開発銀行が貸し付けを行う分野はわりとオーソドックスな案件が多いので、必ずしも日本にしかないような先進的で高い技術は求められません。そういう分野に合ったものを提供することも必要です。
川村:例えば発電設備の商談において、生涯価格というような概念を入れて、「10年後もきちんと発電できます」といったことをアピールするのですが、やはり初期コストが非常に高いため、なかなか受注できないものも多いです。そういう事情もあって、アジアのサプライチェーンの中で、日本で開発・生産を担う部分とそうでない部分を区別する動きもかなり広がっています。
中尾:よく話題になることですが、確かに全てを日本の中だけでつくるのは難しくなっています。国際化が国内産業の空洞化につながるとの議論もありますが、私はどんどん国際的に生産活動を展開しなければどちらにしても日本企業は生き残れないと思います。国際的に展開しても、技術開発に関する部分や資本財、高度な部品、素材など、日本に残る部分はあると思います。
川村:なかなか難しいところです。中尾さんはGNI*の考え方が重要だとおっしゃっているわけですね。
中尾:プロダクトからインカム、貿易収支から貿易外収支、所得収支の重視ということです。
川村:私自身も最終的にはインカムの考え方が重要になると考えています。
中尾:外国への投資からの利子や配当、それに特許料やブランド料といったインカムは、日本経済にとって重要性を増しています。関連して、安くて良いものを大量に売るだけでなく、良いものだから高く売る、高く評価してもらうという姿勢をもっと明確にする必要があると思います。特に自動車、電化製品、衣料品、日用品など消費財に関して言えば、「いいものだから値段は少し高いですよ」という要素が必要になってきます。欧州のブランド企業などは、そうしたことでアジアの富裕層を引き付けています。アジアの消費を見た場合、中間層が急速に拡大していると共に、富裕層の影響が大きいと思います。実際、中国や東南アジアの富裕層は、ブランド製品に対して非常に強い購買意欲を持っています。日本製品にもブランドとしての要素はありますが、どちらかというと質に比べて価格が抑えられているという印象があります。観光や奢侈(しゃし)品を含め、アジアの富裕層向けのビジネスでもっと儲ける必要がありますし、どんどん広がっている中間層に対してもブランド戦略が重要です。一方で、品質は低くても初期コストが安い製品を求める層もあります。そういった少なくとも三つの顧客層を見て、どのようにビジネスの優先度を置いていくかが課題です。私自身はマーケットの専門家ではないので、言うだけは簡単なのですが。
川村:明日(2014年5月22日)、第20回国際交流会議「アジアの未来、2014年」で講演される予定になっていますが、差し支えない範囲で内容をお伺いできますか。
中尾:アジア経済は今や、中所得者層が拡大することで需要が増加し、消費意欲も非常に強くなっており、生産基地としてだけではなく消費センターとしても重要な役割を担っています。その消費や国内投資がアジアの成長を促し、経済を強靭(きょうじん)なものにしていると思います。米国連邦準備制度(FRB)が量的緩和を縮小した場合、新興国から資金が出て行く、すなわちグローバルな資金フローの逆流を生んで混乱が起こるのではないかという議論がありますが、中国やASEAN諸国を含めたアジア経済は強さを維持しており、多少市場の変動があったとしても直ちに大きな壁に当たることはないと見ています。
ただ、先ほど申し上げたように、アジアには課題も山積です。「中所得国の罠」、それから残された低所得国や貧困の課題にきちんと対応していく必要がありますし、地政学的な問題も含めた政治的な問題への対処も重要です。各国とも、これまでアジアがせっかく築き上げてきた経済的な繁栄と政治的な安定を今後とも大事にする政策を追求してほしいと思います。
川村:1997年のアジア通貨危機の再発を防止する意味でも大事にするべきでしょうね。
川村:中尾さんは行政官としての実務をこなしながら、横浜国立大学(2002年度前期に留学生向けに英語で財政学を講義)と東京大学(2011年度前期と2012年度前期に大学院で国際金融を講義)で教壇に立たれてきました。実務と大学での研究を両立されている理由や意義をお聞かせいただけますか。
中尾:両立というほどでありませんが、冒頭に申し上げましたとおり、学問的なことと実務的なことは、互いに有用な部分が多くあります。実務の過程で考えたことを学問的に整理し、学問的に言われていることを実務に適用するということが、日本の社会でもっと強化されていいと思います。米国の場合はそれぞれの学問分野、例えばエコノミスト、法律専門家、会計専門家などが実務との関連でも一つの専門性として確立している部分がありますが、日本の場合は日々の仕事の方が大事という風潮があります。私自身、教壇に立ってきた理由は、たまたま大学の知り合いから頼まれたということもありますが、自分が実務を通じて勉強したことを学生に伝えたり、論文に書いたりすることで、知識の共有が少しでも社会のためになるかもしれない、せっかく考えたことを整理しておきたい、さらには、人に教えたり書いたりすることで自分を鼓舞して改めて勉強する機会にしたい、ということもあります。客員で教壇に立つことについては、週末も使って大変な面もありましたが、本当にやって良かったと思います。学者や専門家の先生とお話する際に、単に行政官としてだけではなく、少しでも学問を理解している人間として相手をしていただけるようになるということも成果の一つです。それから、論文を書いたり、学校で教えたりすることで、どの国の人にも通じるより普遍的な言葉で話す訓練ができます。財務官時代に国際会議で発言する際にも、現在アジア開発銀行で総裁としてさまざまなスピーチをする際にも、とても役に立っていると思います。
川村:大変意義深いことだと思います。社会に出た後に学び直しながら実務に取り組むというのは、非常に大事ですね。
中尾:大学時代は映画を見たり、小説を読んだり、山に登ったりと、自由な時間を満喫していて、授業もよくさぼったほうなので、むしろ最近になって学究的になってきたのは自分でも不思議です。
川村:そのお話とも多少関係するのですが、中尾さんはワーク・ライフ・バランスを大切にされているとお聞きしています。ワーク・ライフ・バランスについてのご自身のお考えや、プライベートなご趣味という点ではいかがですか。
中尾:財務省も最近ではスタッフに早く帰宅することを奨励していますが、昔は早く帰らない課長が多かったです。課長が遅くまで残っていると、部下も帰りにくいのです。そこで、私が課長になったときには、妻と共働きしていたこともあって、8時までには家に帰ってほぼ毎晩夕食の準備を担当するようにしていました。妻は洗濯と掃除の担当です。マニラでも土曜日と日曜日はメードに任せずに、できるだけ私が料理を作るようにしています。子どもたちも私の料理に期待しているようです。ワーク・ライフ・バランスが非常に大事だと考える一つの理由は、女性が働く際には家事の分担は不可欠だということ、もう一つは、家事なども含めて普通の生活を送らないと社会の常識にあった普通の考え方が出てこなくなるだろうということです。毎日深夜まで働いていては、頭がうまく回らなくなるし、そもそも趣味やリラックスのための個人の時間がないのでは、何のための人生か分かりません。ちなみに趣味は、ジャズやクラシック音楽の鑑賞、散歩、おいしいものを食べたり作ったりすることでしょうか。それにマニラに来てから、20年ぶりにゴルフとテニスが復活しました。
川村:会社も是非そういう方向にしたいですね。日本人男性が夜遅くまで残業することを競っているような状況は、本当に良くないと思います。
中尾:残業が当たり前、という状態は女性にとって働きにくい環境ですし、生産性にも貢献していないと思います。仕事に完璧を求める日本人の姿勢は賞賛に値しますが、やはり成果で勝負すべきです。他の先進国でそこまで残業はしないで、休暇もしっかりとって何とかやれているわけですから、日本も可能なはずです。
川村:中尾さんの座右の銘には、どんなものがありますか。
中尾:座右の銘ではありませんが、「学びて時に之(これ)を習う」という『論語』の言葉が好きです。勉強したことを時々思い返していろいろ考えることは、「亦(また)説(よろこ)ばしからずや」というように、そのこと自体が楽しいことのはずです。実際にはなかなかそうはいきませんが。ワーク・ライフ・バランスもそうですが、楽しくなければ何のために生きているか分からないことになりますし、自分にとっても組織にとっても成果は上がりません。アジア開発銀行の総裁になってからも、中途採用した幹部などに、「仕事は楽しんでいるか」という質問をよくします。その人が楽しく仕事をしているということは、部下ともうまくいっていて、自分の仕事にやりがいを見出し、ほとんどの場合パフォーマンスも上がっているということです。もう一つ好きな言葉を挙げるなら、同じく『論語』で、「学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし」です。学ぶと同時に、ここは少し違うのでは、とか、ここはこうしてはどうか、と自分で考えることは不可欠です。一方、自分で考えるだけで人から学ぼうとしないのではもちろん良いアイデアに至りませんし、危険ですらあります。ところで、知っている漢詩や論語のフレーズは、中国人に会うと自然によく持ち出します。実際、日本ほど中国の文化を学校で勉強し、大切にしている国もないと思います。中国人の同僚や友人たちも、教養のある人たちですから、日本の明治以降の成果や第二次世界大戦後のアジアの発展への貢献はよく知っています。自由、社会、資本主義、幹部といった熟語が日本人の作ったものであることも知られているようです。ですから、逆に日本人の私が中国の古典に触れたりすると、親しみを持ってくれるようです。
川村:孔子の『論語』をはじめ、中国の古典にはいろいろな意味で味わいがあります。
中尾:川村さんの好きな言葉にはどんなものがあるのですか。
川村:例えば「恕(じょ)」ですとか。
中尾:宥恕(ゆうじょ)の「恕」ですね。
川村:「一生大事にすべきものは何だ」と、孔子に弟子が尋ねたところ、孔子は「其れ(それ)恕か」と答えたのです。つまり、多分思いやりが一番大事だろうと。相手の立場に立ち、きちんと考えられるかどうかが大事だと孔子は教えています。
中尾:確かに味わい深いですね。「仁は礼なり」でしたか、礼儀も思いやりから来ているのだと感じますね。私も、後輩にごちそうした次の日の朝になって、「ごちそうさまでした」と言われるとやはりうれしいです。自分が若いときは先輩がごちそうしてくれても、その時にお礼を言えばそれでいいと考えていました。しかし、もう一度朝にお礼を言うのは、礼儀であると同時に、実は思いやりなのだな、と思います。
川村:最後に、中尾さんが今後実現したい夢についてお聞かせください。
中尾:アジアが平和も含めた安定と経済的な発展、繁栄を継続し、世界の中での発言力を高めていくことでしょうか。私自身はアジア的なスタンダードというのが特にあるとは思いませんが、西洋社会が、民主主義、市場、あるいは人権問題なども含めて、世の中の良いものは全て自分たちが考え出したのだ、というような発想は間違っていると思います。
それらは西洋が体系化ということで大きな貢献をしたにしても、人間社会の一つの普遍的な価値です。人権についても、江戸時代でも侍が人を傷つけると裁かれたわけですし、孤児を預かる施設もありました。どこの国でもそのような人権や弱者保護の考えがあります。今後とも、アジアが発言力、モラルや新たな思想の面を含めて、プレゼンスを高めていくことができればと思います。
川村:アジアは人口も多いですし、ずっと成長していってもらいたいですね。アジアには安定と繁栄を継続していく能力もありそうなので、日本をはじめ、いろんなところがうまくアジアの成長を支援できればいい、こういうお考えですね。
中尾:アジアにもいろいろな課題、その中には難しい歴史的な問題もありますが、貿易・投資などの経済面、文化面も含めて大きな交流強化のポテンシャルがあるので、そういった側面にできるだけ注目してプラスサムを強化していってほしいと願っています。
川村:本日はお忙しい中、本当にありがとうございました。
中尾さんは、大蔵省(現在の財務省)に入省後、主計官、国際局長、財務官などを歴任されて、現在はアジア開発銀行総裁としてアジアの経済開発と貧困削減に取り組まれています。今回は、変化するアジア開発銀行の役割、アジアにおける「中所得国の罠」の問題、また、アジアのインフラ事業における日本企業の役割などについて、解説していただきました。自らもワーク・ライフ・バランスを実践されている中尾さんの、「仕事も人生も楽しくないと良いことができない」というモットーには、女性活用やワーク・ライフ・バランスを推進することの重要性を改めて認識しました。また、実務と研究を 両立させる中尾さんの働き方、すなわち向上心追求型、自己実現追求型の働き方にも、大いに触発されました。