研究活動などを通じ構築したネットワークを基に、各分野のリーダーや専門家の方々と対談
企業活動がグローバル化し、多様な個性を持つ人材がさまざまな形で参画するようになる中、企業経営におけるダイバーシティ&インクルージョン(D&I)*の重要性がクローズアップされています。異なる文化やアイデンティティを受容し、互いに発展していくことは容易ではありませんが、振り返れば日本の歴史には、成功も失敗も含め、数々の異文化交流の史実が蓄積されています。それらの史実について、なぜそれが起こったのか、歴史上の人物たちはそのとき何に基づいて行動したのかを考えることは、現代の私たちが直面する問題に対する有益なヒントを与えてくれるはずです。今回は日本中世史を専門とする歴史学者の本郷和人氏をお招きし、先人たちの例に学びながら、D&Iに基づいたグローバル成長の道筋を考えます。(聞き手は、日立総合計画研究所取締役会長の内藤 理が担当)
東京大学史料編纂所 教授
1960年東京都生まれ。博士(文学)。1988年東京大学史料編纂所に入所。2005年東京大学大学院情報学環助教授。2008年東京大学史料編纂所准教授、2012年より現職。
東京大学文学部・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し、日本中世史を学ぶ。専攻は中世政治史、古文書学。史料編纂所で『大日本史料 第五編』の編纂を担当。NHK大河ドラマ『平清盛』の時代考証を担当。
著書に『日本史の法則』(河出書房新社)、『「失敗」の日本史』(中央公論新社)、『「違和感」の日本史』(産経新聞出版)、『歴史のIF』(扶桑社)ほか多数。
内藤:今回先生が新しく出された著書『日本史の法則』を大変興味深く拝読しました。その中に「もしも鎌倉幕府に教養があったら」という元寇のくだりがありました。モンゴルから送られてきた国書は、驚くほど丁寧なもので、別に服属を求めてきたわけではなさそうだった。だから、鎌倉幕府がモンゴルの意図をきちんと理解していれば、戦争にならなかっただろうというご見解で、地政学リスクの観点からも、面白いと思いました。
私も調べてみたのですが、元(モンゴル)は日本に何度も使節を送ってきており、日本人を2人ほど、対馬から元の当時の首都まで連れて行ったこともある。にもかかわらず、幕府はその後、交流をしませんでした。関わるのが嫌なら嫌とはっきり言うべきなのに、延々ときちんとした対応をしないでいたようですね。
一方で、積極的に交流をした話として思い当たるのが、聖徳太子の遣隋使派遣です。「日出ずる処の天子」という言葉*1ばかりが注目されていますが、隋書の前半をよく読むと、「この国の天子は菩薩天子で、再び仏教を興そうとしている」と、相手が喜びそうなことを最初に言った上で、かなり失礼なことは後のほうで書いている。恐らくは相手のことを事前によく調べていて、戦略を立てる、これはインテリジェンスですね。
しかし、すでに650年以上も前に聖徳太子が実践していたことを、なぜ鎌倉幕府はできなかったのか、疑問に思います。大陸に直接相対していないため、危機感がなかったということでしょうか。
本郷:厩戸王(聖徳太子)の時代は、それ以前に倭の五王たちが大陸に遣使をしていた伝統があるため、中国大陸や朝鮮半島と絶えず対話をしながらやってきていました。当時のエリートと呼ばれる人たちは、必ず西を向いているのです。
東にはまったく向いていませんから、現在の東京辺りがどのようになっていたかなど、まったく理解していなかったと思います。すばらしいものは東からはやってこないと思い込んでいたため、それを知らずとも問題がないわけです。考えてみますと遣隋使や、その後の遣唐使を派遣していたときも、やはり彼らは常に西を見ていました。
それが894年に菅原道真が遣唐使をやめた。すると、そのころの貴族の日記を見るとよく分かりますが、どんどん夜郎自大になっていくのです。海外の人に頭を下げるということがなくなって、「私たちほど偉い者はない」という風潮がでてきます。
モンゴルの国書がやってきたときの幕府の対応はひどいものでしたが、朝廷の対応も決してよいものとは言えませんでした。プライドは持つべきであり、自分たちを卑下することがいいわけではありませんが、自らの非や不足しているところをきちんと自覚しながら、相手の優れたところに学ぶ姿勢が大切なのです。
日立さんはスイスABB社のパワーグリッド(送配電網)事業買収*2にあたり、エクセレント・カンパニーであるABB社に学ぼうとされたと伺いましたが、そのような姿勢が大切です。鎌倉幕府はその姿勢を忘れていたため、元寇という事態を起こしてしまった。
内藤:自分たちが知らない世界や知らない相手のことを調べるときは、「よく知っている人に聞きなさい」といわれます。これは「どのコンサルタントと仕事をするか」と少し似たところがありますね。この課題にはこのコンサルがよい、と向き不向きがあるものです。
当時日本は宋との関係もありましたし、幕府は宋から来た僧たちからいろいろと知恵を授けられたのでしょう。そのような中でも元を直接見た人がいるわけですから、その人から話を聞き、情報を手に入れてよく考えていれば、違った展開になったのではと想像します。元はいずれ何らかのかたちで攻めてきたかもしれませんが、少なくともそれまでの時間を十分稼げて、対策も取れたのではないかと考えます。
これは現代の国際関係にも通じると思います。大事なのは、自分のポジショニングであり、そのための情報をきちんと仕入れること。特に秘密情報である必要はなくて、パブリックインフォメーションをどう読み解くか、その訓練をした上で相手の国と付き合っていく。それがお互いの国益になるわけですね。この元寇のくだりを拝読して、現代の地政学分析に置き換えると興味深い示唆があるようです。
本郷:鎌倉幕府にいろいろなことを教えてくれた宋の禅僧たちは祖国を滅ぼされているため、モンゴルにいい感情を持っているかと問われたら決してそうではなかったでしょうね。
内藤:このほか、日本史全体を振り返って、異文化との遭遇という面から、注目すべき人物はいますでしょうか。
本郷:ジョン万次郎こと中浜万次郎は面白いですね。彼を見ると、当時の日本人の様子がよく分かります。一介の船乗りが、遭難して米国の船に助けられた。そして船長が彼をすごく気に入って、勉強させてくれました。その結果、万次郎は英語をあっという間に習得し、米国のさまざまなことを知った上で日本に帰ってくるわけです。
その後、日米和親条約の締結のときには平和的な締結に向けて、陰になり日なたになり貢献している。「遭遇」というよりも、異文化の中に放り込まれて本当に困っただろうと思いますが、彼を見ていると日本人はそういう状況で結構な才能を発揮するものだなあと、つくづく思います。
内藤:当時の米国の現実を見た人が、タイミングよく幕末の大事なときに戻ってきたとは驚きです。英語が分かる人が他にそれほどいなかったのもありますが、彼には素養や才能があったのでしょう。でもその才能が開花するためには、何らかの機会が必要だった。
漂流のような、誰も望まない強制的な機会であっても、気が付いたらそれがチャンスになっている。誰かがスポットライトを当ててくれたみたいに、その人の人生がぱっと開けていく。「チャンスがあったら、何でもいいからつかめ」とよくいわれますけれども、ジョン万次郎の話も奇跡的ですよね。教育機会はどこにでもあるのかもしれません。
本郷:もう一人、山川健次郎もすばらしい人ですね。明治時代の物理学者で、東京大学の総長をされた方です。米国への国費留学生に選抜され、エール大学で物理学の学位を取得しています。物理学を学ぶまでには、もちろん、いろいろなかたちで勉学の機会はあり、それまでの歴史からの学びにも触れていたでしょう。そして、物理学に出合って抜群の才能を示したわけです。少年期は白虎隊だったという経歴も異色ですが、日本の物理学の基礎を作った人で、本当にすばらしいと思います。
よく、与えられた機会を生かすためには、素地や才能が必要だといわれます。日本の科学の素地を考えてみると、江戸時代の和算があります。関孝和が有名ですが、庶民の間でもとてもはやっていたようです。当時、三角関数やピタゴラスの定理を使って解いているのはすごいことだと思います。
内藤:神社に算額がありますよね。「〇〇の大きさを求めよ」のような問題が書かれた額が奉納されているのを見て、驚いたことがあります。
本郷:算額に問題を掲げると、その答えを書いてまた掲げる。江戸時代は、日本人全体の知能がものすごく伸びた時代ではないかという気がします。それはおそらく、平和になったからですよね。
内藤:話が少し脱線してしまうかもしれませんが、私は18世紀後半、いわゆる宝暦・天明期の京都の文化と文人たち*3に興味をもっています。円山応挙から長澤蘆雪、伊藤若冲などの画家がいて……。
本郷:池大雅、与謝蕪村もそうですね。
内藤:そうですね。それから『雨月物語』の上田秋成。堀景山は朱子学ですし、手島堵庵は心学でしょう。ほかにも山脇東洋、司馬江漢の蘭学など、皆この18世紀後半の京都という、かなり限られた狭い範囲にいました。
時代背景を見ると、まさに田沼意次時代です。腐敗もありましたが、政治、経済は安定していました。朱子学は江戸時代の初期に幕府の官学とされましたが、この時代には伊藤仁斎や荻生徂徠のような儒学者によって、もう一度朱子学の原文をよく読み直そうとする運動が起こったようですね。権威を見直そうとする時代精神があったともいわれています。
当時の京都は、経済的な安定を背景に多くの才人がいて、一気に文化が盛り上がっていた。文化的なイノベーションが起きていたとも言えますが、これは、私たちがめざすスマートシティの一つの姿ではないかと考えています。難しいことではありますが、この文化的イノベーションを起こすメカニズムが理解できれば、新たな知的イノベーションを起こせるような都市ができるかもしれません。
実は前回、西洋古代哲学がご専門の東京大学の納富信留先生に来ていただいて、アテナイの知的イノベーションの話を聞かせていただいたのです。日本の歴史の中に同じような例がないか探してみたところ、18世紀後半の京都に思い至りました。江戸時代には、ほかにも文化・文政や元禄の頃などに、知的イノベーションの興隆した都市があるかもしれません。
本郷:都市や地域社会という視点では、江戸時代の医学・医療が興味深いです。コミュニティの存在が非常に生きているのです。まさにコミュニティが育てている感じが強いですね。幕府ではなく、藩でもない。コミュニティの有力者が、新しい世代の医者を育てるのです。医者はコミュニティに対して目に見えるかたちで貢献するからかもしれません。
素養や才能のある人に投資をして勉強させる。医学をやりたいという話になれば、当時の最先端の医学が学べる大坂や京都、長崎などに留学させます。江戸時代の言い方では遊学ですね。無論、彼らはとてもよく勉強しますが、もう一つ大事なのは人脈を作って帰ってくることです。「自分の師匠は〇〇先生で、兄弟子にはこういう人、弟弟子にはこういう人がいる」という関係を築いて、自分のふるさとへ帰る。地元で医者を始めたときに、もし自分が分からないことがあれば、その人脈をフルに使って、さまざまなかたちで情報を集める。
その情報網はすごいものです。天然痘の治療法としてジェンナーの牛痘法*4の論文が日本に入ってきたとき、その情報はあっという間に広まりました。情報をオープンにして、みんなで教え合って、天然痘と闘おうとしていたのですね。
その後、その人が年を取ってその土地の有力者になったら、今度は資金を出す側に回り次の世代を育てる。それを繰り返しやっている。そのようにして地域や街というコミュニティが、人材を育てていたのです。
内藤:人材が育つには経済的な安定も必要であるため、パトロンといわれるような人たちも重要ですね。一方で人材である医者の卵たちは、高い志を持っていましたので、多様な立場の人を包摂するコミュニティの存在が、イノベーションを起こす苗床のような働きをしていたのでしょう。
経営の現場では、同じキャリアの人だけを集めると、同じ発想しか出てこないので望ましくないといわれます。同じ考えを持った人同士の発想はまとまりやすいが、一定の限界があります。
先生の著書『日本史の法則』の中で、鎌倉後期に「大覚寺統」「持明院統」という二皇統が存在したのは、皇室の力をそぐための幕府の意図だったのではないか、と書かれていますね。一つの組織に二系統、というと、企業合併の例を想起してしまいました。例えばA社とB社が対等合併した場合、社長は両社から交互に出すという形では、いつまでたっても別々の系統が存在することになり、1足す1は2にしかならず、むしろ力は弱くなる。A社でもない、B社でもない、新しいC社を創ろうというモチベーションがあれば、そこはさまざまな考えの人の集まる新たなコミュニティになって、1足す1のリソースで2以上になることがあるのではと思いました。
本郷:巨大な力を持っている勢力を二つに割れば力をそぐことができる。徳川幕府が本願寺を東と西に分けたことと同じでしょう。今のお話で言えば、確かにコミュニティとしては1足す1が3にもなる、4にもなる、そういう形が一番いいでしょうね。
内藤:実は先生とお話できるのでいろいろ勉強してまいりました。18世紀初頭の新井白石とイエズス会宣教師シドッチとの交流も興味深いですね。シドッチの審問の内容をまとめた白石の『西洋紀聞』を再読しました。
新井白石は、当代随一の朱子学者であり幕府最高の高官です。一方のシドッチも禁教令下の日本に布教のためやって来る司祭です。貴族の出身で相当な教育を受けていたようですね。白石はキリスト教に対しては辛辣なのですが、人間としてのシドッチに対しては違っています。門番から「寒いからこの服を着なさい」と言われたシドッチが「施しは受けない」と返した。それに対して白石は「それはあなたのことを心配している人を苦しめることになる。それがあなたの宗教か」と問うのです。そんなやりとりを読んで、国や信じるものはお互い違っていても、それらを超えて通じ合うものがあるのだと感じました。
世界地理の話なども随分書かれているので、白石は本当に西洋のことを知りたかったのだろうと思います。審問をしたり処置を決めたりしなくてはならないが、ただ純粋に知りたかったのではないでしょうか。この知性同士のぶつかり合いが、とても興味深いです。これは、日本にとっては本格的な西洋学との出会いといえるのではと思います。
本郷:シドッチといえば、4、5年前に東京都内の切支丹屋敷跡から遺骨が発見されました。自分の立場や置かれた環境から、お互いに捨てられないもの、曲げられないものはあったでしょうけれど、一流の知性同士の巡り合いは、とても楽しかったのではないかと想像します。
白石からもう少しさかのぼりますが、織田信長と宣教師の例もあります。詳しい資料は残っていませんが、辻邦生の小説『安土往還記』(新潮社)には、信長が宣教師ヴァリニャーノとの別れを惜しむ場面が感動的に描かれています。やはりそこには本当の意味での友人関係があったのだと思います。
内藤:そういえば、信長の側近にアフリカ大陸から来た弥助という外国人がいましたね。少しSFっぽくなっていましたが、最近アニメーションでシリーズ化されました。
本郷:ヴァリニャーノが奴隷として引き連れていたのを信長が交渉して、武士として自分の臣下にしたという人ですね。洋書『African Samurai』は米国で大ヒットした小説のようです。著者はロックリー・トーマスという歴史研究者で、小説半分、事実半分のような作品です。映画化の話もあったようですよ。弥助は、ダイバーシティそのもののような存在ですから、現代でも話題になるのでしょうね。
内藤:信長の先進性なのか、出自を気にせず気に入れば自分の近くに置く。あの時代に純粋な日本人だけではなく、外国の人たちが集まっていたことに、私はすごく勇気づけられます。狭い村の中だけで考えているのではなく、多様な人たちと話し、交流することによって、新たな知恵が出てくるのだと思うのです。
本郷:これは日本人論になってしまいますが、島国であった日本は他国からの攻撃の懸念が低く、また、温暖な気候であったことから、国内での激烈な歴史はほとんどありません。平城京、平安京においても、城壁で都市を守るという概念がありませんでした。異民族が身近におらず侵略の恐れが少ない国家というのは、本質的にダイバーシティを受け入れやすい国民性を作るのではないかと思います。
内藤:先生の著書(『考える日本史』)で指摘され気付かされたのは、平城京や平安京、藤原京らの都市すべてに城壁がないことです。確かに京都も塀がないので、いろいろな人が入ってきますし、時の政府や天皇は情勢によって他県へ移動したり、戻ってきたりしますね。
2022年のNHK大河ドラマでは『鎌倉殿の13人』*5が放送予定ですが、この時期は幕府内権力争いが激しく血で血を洗う時代でしたよね。
本郷:コミュニケーションが発達していないので、争いが起きてしまうのです。もう少し教養が蓄積されれば「話せば分かる」が通用しますが、そうでない時代では「話しても面倒だから殺してしまえ」となってしまうのですね。
内藤:古代では反対勢力をすぐに殺してしまうという話がよくありますが、鎌倉時代ですから、いろいろな方法や戦略が進んでいただろうと思うのに、あれだけ権力争いや戦いに明け暮れていたのはなぜだろうと思います。
本郷:貴族は平安時代に成立して、だんだんと進化していきます。夜郎自大にはなるのですが、彼らは政権争いをしたからといって、そうそう人を殺しはしません。やはり成熟することで争いは減っていくのです。
その次に武士が登場します。武士は最初のうちこそ戦いをしましたが、ノウハウの蓄積により、室町時代ごろになると、それほど争い自体をしなくなります。江戸時代になると、政権争いは非常に厳しくなりますが、負けたからといって、腹を切れと言われるかというと、それはないです。ただし、時代の変わり目には、乱暴な人が出てきますね。
本郷:「現代のようなグローバル社会で、なぜ日本史を学ぶ必要があるのか」という声が、周囲からかなりはっきりと聞こえてくるのですが、日本人が日本のことを知らなかったら、ダイバーシティについて語ることはできません。それぞれの国や地域がもつ知恵や歴史、物語などを語ることのできる人たちが集まり、初めてダイバーシティになります。そこで全く異なる感覚や教養、伝統を持つ者同士が切磋琢磨することでイノベーションも起こってくるのではないでしょうか。まさしくこのことが、歴史を勉強する意味を問われたときの、最後の生命線になると思います。
内藤:歴史には人類の英知も詰まっていると同時に、多岐にわたる多くのやってはならない失敗も蓄積されています。私たちが今直面していること、それはうまくいっていることもあればそうでないこともありますが、何百年前の人たちも似たような経験をしているのです。人類の知性をコンピュータで例えれば、ストレージは増えているけれども、プロセッサはあまり変わっていないのでは、と危惧します。狭い視野でしか物事を判断しないことが、同じような失敗を繰り返すことになりはしないかと自戒ばかりです。
歴史に学ぶというのは、単に政治や経済の問題を知るということではなく、自分の行動のヒントを探すということかもしれない。私たちは新しい技術も大事ですが、古典や歴史を通して過去を振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。
本郷:私は歴史を学ぶ意義について、何十年と考え続けてきました。私の仕事は研究と史料編纂ですが、いくつかの大学で学生を教える機会もあります。年度末のテストの問題は必ず「歴史を学ぶ意義について述べよ」と出題するのですが、なかなか面白い発想は出てきませんね。
なぜ歴史を学ぶのか。教養として学ぶ学生もいますが、大学の4年間で専門に学んだ学生が就職試験で「歴史を学ぶことが当社にどんな利益があるのか」と問われたとき、どう答えたらいいのでしょう。私はその答えを用意しなければいけないと思っていて、それが研究の原動力になっています。
内藤:先日、私が高校生のときに使っていたシグマベストシリーズ(文英堂)の歴史の参考書を見てみたら、鎌倉幕府の成立時期は、侍所の設置(1180年)、東海道以東の東国の支配権獲得(1183年)、守護・地頭の設置(1185年)、源頼朝の征夷大将軍就任(1192年)の4時点を挙げた上、「鎌倉幕府は、この4時期にわたり12年をかけて、名実ともに成立したと考えるべきであろう」と書いてありました。高校のときは年号の暗記ばかりしていましたので、こういう内容を高校生のときにもっとよく理解していれば、さらに日本史を好きになれたのではないかと思います。
本郷:歴史は絶対に大学受験科目から外すべきで、これは私の使命だと思っています。そうすると、暗記から開放されるでしょう?人物を語らず、暗記に縛られる歴史学習で本当にいいのだろうかと思っています。ある時代の社会を客観的に分析していくと、その社会特有の構造が見えてきますし、その社会の成り立ちや、どんな指向性、すなわちベクトルを有しているかが解明できます。そのベクトルに合致した行動をとっている人が歴史的に大きな成果を生み出すことができる「歴史的人間」になるのだと考えます。
大河ドラマ「平清盛」の時代考証を担当しましたが、制作スタッフから、やたらと平〇盛という人が多くて覚えるのが大変だったと言われ、困惑しました。歴史=暗記という図式は変えるべきでしょう。
鎌倉幕府の成立時期にしても、「何をもって武士の政権というか」という、その大きな考え方がないと、「何年だ」と述べるわけにはいかないのです。高校で1年間かけて、「歴史学は何を学ぶ学問なのか」をテーマに授業をしてくれたら、みんな楽しんでくれるはずです。しかもそれで受験に関係がなければ、大いに楽しんでくれると思うのです。
内藤:海外の経営者と話す機会がありますが、たいてい自国の歴史について一家言も二家言も持っておいでで、最低限ローマの歴史はほぼ押さえています。ビジネスの世界ですから、そのような知識は別になくてもいいですし、困るわけでもない。マーケットがあり、そこで新しいビジネスモデルを構築していけばいいのかもしれない。
しかし、多様な人と交流する中で「ここに新しい種があるかもしれない」と気付かせてくれる、そういう視点で物事を見ることができるのは、先生がおっしゃるように歴史学のおかげなのだろうと実感します。
本郷:今のお話が顕著なのは、欧州でしょう。欧州では国境線が頻繁に変わります。そうなると「自分のアイデンティティは何か」ということを考えざるをえません。ただし、自分を把握することは大切ですが、「自分のアイデンティティはこうだから偉いんだ」となってしまうのは危険です。当然、相手にも同様にアイデンティティがあるわけですから、うまくいくわけがありません。お互いに尊重し合うのがダイバーシティであり、その上で自分たちの考え方を主張する。
しかも相手を知ることによって、自分の考え方を相対化できる。それがとても大事なのではないでしょうか。私はビジネスのことは詳しくありませんが、10対0は望ましい状態ではありません。Win-Winの関係を作り出すためには、自分の考えの相対化はどうしても必要です。
内藤:最後に研究者のお立場から、私たちのシンクタンクの活動にアドバイスをお願いいたします。
本郷:私は日本という国が好きだし、日本の街や村が好きです。けれども今、地方の小さな都市はすっかり疲弊してしまっています。地方都市の活性化は、私にとっても大きな課題であり、日立さんが手掛けている持続可能なまちづくり、都市づくりに期待をしています。
特にモビリティは大きな課題だと感じています。年配の方が病院や買い物に行く際に不便なことが多いので、そこでぜひ自動運転を実現していただきたいです。自動運転で移動できれば、人々は今とは違った風景が見えるのではないかと思うのです。
内藤:自動運転を含め、いろいろな形で都市のスマート化を考えたとき、メガシティよりも、人口が20万~30万人ぐらいの街の方が、居住区や商業区、工業区、あるいは観光産業区などの区画分けがはっきりしているため、運営しやすいのではと思っています。 そのときに大事なのは、外から人を呼べるような特色があることです。それがないと、結局内部で閉じてしまいます。外から人を呼ぶには魅力ある文化を打ち出していくことが重要で、それを経済的に成立させるための金融機関のバックアップも必要です。そのような特色あるまちづくりを進めるなかで、自動運転も提案の一つとして取り上げられるだろうと思います。 最近、都市について考えるときウォーカビリティという言葉がよく使われます。街中を歩くだけで楽しい街にしましょう、という考え方です。今、日立は松山市と一緒に「データを活用した市民参加型のまちづくり」を進めています。2020年に国土交通省のスマートシティモデル事業に採択されたもの*6で、データに基づいた市民参加型のまちづくりにより「歩いて暮らせる」都市空間をめざしています。街全体の移動を楽にしていくことによって移動の課題を解決する方法もあるかもしれません。 いろいろな要素を考えて設計するためには都市デザイナーが必要ですが、まちづくりには「この街が好きだ」という人が真ん中にいないと駄目だと感じます。先生は歴史学者の視点から、街や村に愛着を感じられるのでしょうね。
本郷:私は三浦半島でまちづくりを実践しようとしています。浄土宗「浄楽寺」には運慶作の仏像が5体あり、長い歴史といろいろな物語があります。それらの物語を、寺を巡りながらQRコードから漫画や文字資料として呼び出せる仕組みをつくりたいのです。生活にITネットワークを導入しようと「ユビキタス社会」という言葉が流行していたころから手掛けていますので、15年かかりました。鎌倉市でも展開してみたいと思っています。歩いて楽しいというのは大切ですね。
今後も歴史研究は続けていきますが、専門である中世史を分かりやすく考えていく歴史書を改めて書きたいと思い準備をすすめているところですね。
内藤:それは楽しみに待ちたいと思います。本日は大変すばらしいお話をありがとうございました。高校から勉強しなおします。
※今回の対談は、フィジカルディスタンスを保って実施しました。
日本史が苦手になる理由の一つに「藤原氏多すぎる問題」というのがあります。高校の教科書に出てくるだけでおよそ70人。先生からは歴史をストーリーで捉える視点を持つことを教えていただきました。今回の対談を通して、歴史を学ぶ意義、特に自国史の大切さを改めて感じました。「歴史のIF」を仮定して、さまざまな視点から分析を試みる重要性は、ビジネスでも同様かもしれません。固定観念や先入観にとらわれてはいけない、場合によっては権威さえも疑ってかからなければ、と気付くことばかり。常々、イノベーションは無からではなく、既存知の組み合わせによって生まれるものと考えていましたが、歴史こそ既存知であり、本郷先生に「それが歴史を学ぶ意義」であると示唆していただいたのは、大変心強いことでした。
株式会社日立総合計画研究所 取締役会長 内藤理