研究員お勧めの書籍を独自の視点で紹介
2006年9月8日
昨今、軍事戦略を企業戦略に応用したビジネス書が数多く出版されている。また、昨年戦後60年を迎えたこともあり、日本敗戦の教訓から企業の戦略や組織を見直そうとするものも目立つ。軍事戦略論の中でも最も有名なものは、中国の古典兵法書である「孫子」であろう。この「孫子」をモチーフとした企業戦略論や組織論が、日本のみならず、欧米や本家中国においても出版されているが、その解釈はそれぞれの著者のビジネス経験によって異なっている。自らのビジネスへの示唆とするためには、まずは「孫子」そのものを読むことをお勧めしたい。
「孫子」は中国の春秋時代に孫武により書かれた最も古い兵法書である。計、作戦、謀攻、形、勢、虚実、軍争、九変、行軍、地形、九地、火攻、用間の13篇からなっており、組織について系統立てて論じられているわけではないが、現代の企業組織のあり方にも通用する知見が、この2500年前の兵法書の随所に散りばめられている。その一部を、企業組織の観点から解釈を加え、以下に紹介する。
「彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆うからず。」(謀攻篇)
「孫子」の最も有名な一節である。企業において、顧客や競合他社の動向と同時に自社の前線の状況を把握しておくことは重要である。さらに、「孫子」ではこれに先立って、時勢の把握、用兵の熟知、人心の一致、周到な準備、有能なリーダの五つを勝利のコアコンピタンスとして取り上げている。このことは、現代の企業におけるリスクマネジメントやコンティンジェンシープランにおいても通じる。
「凡そ衆を治むること募を治むるが如くなるは、分数是れなり。衆を闘わしむること寡を戦わしむるが如くなるは、形名是れなり。」(勢篇)
いわゆる大企業病といった組織肥大による弊害が指摘されているが、組織を常にフレキシブルに動かし、情報伝達および共有を迅速に行うことは、企業間競争を勝ち抜く上で不可欠である。現在、経営課題を可視化しリアルタイムな対応を図る経営コックピットや、意思決定の迅速化を重視したアジャイル経営といった考えが広がりつつあるが、ここではその基本となる考え方が示されている。
「善く戦う者は、これを勢に求めて人に責めず、故に能く人を択びて勢に任ぜしむ。」(勢篇)
企業の競争力を強化するためには、人材を適材適所に配した組織全体での最適化をはからなければならない。異なる組織構造をミックスし指揮命令系統を多次元化するマトリックス組織や、複数の部門から多様なメンバーを集めて構成されるクロスファンクショナルチームなどのコンセプトが登場しているが、その本質は「能く人を択びて勢に任ぜしむ」に通じる。
「兵に常勢なく、常形なし、能く敵に因りて変化して勝を取る者、これを神と謂う。」(虚実篇)
経済情勢や技術発展など企業を取り巻く環境はめまぐるしく変化しており、企業はそれに対応して組織を柔軟に編成し、迅速にオペレーションを行わなければならない。ネットワークを活用して必要な技術やノウハウなどを外部から調達し組織化するバーチャルコーポレーションや、メンバーの自主的な学習により持続的な変化を行う組織的能力を身に付けたラーニングオーガニゼーションなど新しい企業組織論が登場しているが、これらは現代における「変化して勝を取る」ための戦略である。
「間事未だ発せざるに而も先ず聞こゆれば、間と告ぐる所の者と、皆死す。」(用間篇)
機密情報の漏えいは競争上死活問題につながることから、企業の組織内における情報統制を厳格にすることは重要である。近年、企業におけるコンプライアンス導入の必要性が高まっているが、ここでは規律の遵守を徹底させなければならないことが、組織の課題として明示されている。
以上に示した例にあるように、「孫子」は企業の組織のあり方に関しても多くの示唆を与えており、現代でも十分に通用するものであるが、その特色は、極めて現実主義的な視点で考察されていることである。忠誠心や勤勉性といった情緒的な視点が戦略には役立たないことを示しており、「これを亡地に投じて然る後に存し、これを死地に陥れて然る後に生く」といった徹底した人間観察に基づき、戦略を論じている。それが故に、「孫子」は時代や地域を超える普遍性を持ち、2500年もの長きにわたり多くの軍事家や企業家が参照してきた。「孫子」における人間に対する深遠な洞察は、現代の企業の課題を考える上でも大いに参考となろう。
なお、本書は「孫子」の注釈本であり、漢文、読み下し文に加え訳文も記されており、解説および訳注も豊富であるので難解な語いも理解しやすく、一読をお勧めする。