研究員お勧めの書籍を独自の視点で紹介
2012年9月11日
著者のポール・クルーグマン氏は、米国プリンストン大学経済学教授であり、2008年にはノーベル経済学賞を受賞している。同時に、ニューヨーク・タイムズ紙のコラムニストでもあり、同紙のサイト上に持つブログThe Conscience of a Liberal*1ではリベラル派の立場から保守派に論争をしかけてエコノミストのブログ空間上で常に議論を巻き起こし続けている。本書では、失業率が高止まりした状況に有効な手を打てずにいる米国政府やFRB(連邦準備制度理事会)への不満をぶちまけている。FRBはインフレ期待が生じるまでもっと金融緩和すべきだし、政府は短期的に財政赤字が膨らむことなんか気にせずに、これまで延期してきた公共事業を今こそ行い、レイオフしてきた教師など公務員を呼び戻し、失業手当などを一時的に一層手厚くし、住宅ローンで首が回らなくなった債務者のローン契約見直しを助けるべきだ、と述べている。
しかし、不況対策としていつも著者はこんな提言をしているのかと勘違いしてはいけない。今の米国経済が流動性の罠に陥っているからこその提言と言える。本書の原題はEnd This Depression Now! 。ここでは、DepressionとRecessionの言葉を使い分けている。Depressionは中央銀行が政策金利をゼロまで下げても需要不足から完全雇用が回復できない流動性の罠の状況、Recessionは中央銀行がインフレ抑制のために金融を引き締めた結果の景気後退で中央銀行が政策金利を引き下げれば完全雇用に戻れる状況である。Recessionの通常の世界とDepressionの流動性の罠の世界とでは、経済政策の有効無効が逆転してしまう。通常の世界では、金融緩和でマネタリーベースを拡大するとインフレに、財政赤字を膨らませると金利上昇を招いてしまうので、通常の世界の常識にとらわれた人たちにとっては著者の提言は過激に聞こえるかもしれない。しかし、流動性の罠の世界では、マネタリーベースを拡大してもインフレにならないし、財政赤字を膨らませても金利は上昇しないとしている。1990年代以降の日本や2008年以降の米国がその証拠として挙げている。1930年代の大恐慌の経験を踏まえて生まれたマクロ経済学は、こうした流動性の罠の世界を経済理論化しており、それは教科書にも載っている。実は著者の提言は標準的な経済学の教科書が教える流動性の罠からの脱出策の正道と言える。
ただし、完全雇用に戻す政策についての教科書を越える部分では、著者はニューヨーク連銀のガウティ・エガートソン氏と共同で新ケインズ派モデル*2を用いて議論している。そのモデルをベースに、縦軸を物価水準、横軸を実質GDP水準として総供給曲線と総需要曲線の交点で短期的な均衡点とする図式で以下のように分析している。バブル崩壊後、過剰債務を抱えた債務者が支出を削減せざるを得ない一方、債権者は支出を増やす理由がないことで完全雇用を達成するには需要が不足する状況が生じる。その結果としての流動性の罠の世界では、総需要曲線は左シフトするだけでなく、デフレによって債務者の抱える実質債務負担が増加するフィッシャー効果によりその傾きは右下がりから右上がりに変わる。すると、総供給曲線を右シフトさせると、経済規模は縮小することになる。保守派は、労働市場を柔軟にして賃下げすれば総供給曲線は右シフトして経済は完全雇用に戻ると主張しているが、著者はかえって完全雇用から離れてしまうと反対している。
著者が「さっさと不況を終わらせろ」と言うとき、第一義的には米国経済を対象としている。本書では、現在の日本に直接提言はしていない。だが、NHKが行った著者へのインタビューの中では*3、一部で日本経済回復への処方箋について語っている。著者はキーワードとして “Growth with inflation” (インフレを伴う経済成長)を挙げ、インフレ目標を1%から3〜4%程度に引き上げる、国債をもっと買い上げるなどできることは何でも試す姿勢で金融を一層緩和することを提言している。財政政策については、今は消費税率を引き上げるタイミングではない、政府債務残高が非常に高いレベルにまで積み上がってしまってはさすがに政府支出を増やせとは言えないが、政府支出の削減は先延ばしすべし、と述べている。この点については、異論を持つ人も多いと思われる。ノーベル経済学賞受賞者だから著者の言うことはいつも全て正しいというわけではない。実際に、本人もそれは承知をしており、本書第6章「暗黒時代の経済学」では、著者の見解と180度違った見解を持つノーベル経済学賞受賞者が何人も紹介されている。著者を含めて権威だからという理由だけで信じるべきではない。例えば、日本のデフレと財政政策の見方については評者にも少々異論があるので、以下述べてみたい。
バブル崩壊後の企業による過剰債務調整が終了しているはずの日本がいまだに流動性の罠から抜け出せないでいる理由は人口動態に原因があるのではないかという仮説*4を評者は考えている。著者とエガートソン氏が共同で組み上げたモデルにおける債務者と債権者を、日本における若者と高齢者*5に置き換えて考えられないだろうか。バブル崩壊の結果、住宅ローン契約の下、過剰債務を抱えバランスシートを調整せざるを得ない債務者と、老年従属人口指数が上昇する人口動態の変化*6により現行の年金制度などの社会契約を前提とすると将来債務が過剰でバランスシートを調整せざるを得ない若者とをパラレルに見なせないだろうか。デフレによって実質政府債務残高が増加し納税者としてその負担を感じる若者が支出を抑える、あるいは、デフレによる賃下げが若者に偏っていて若者が支出を抑えるといった状況が起こっているのではないかと考えられる。一方、大半の金融資産を持つ高齢者はデフレによって購買力は増えるが支出を増やす理由はない。この分配の偏りが経済全体として需要不足となり、実質金利がマイナスでないと完全雇用にならない流動性の罠を生じているのではないか、という仮説である。だとすると長期財政収支を改善する施策や高齢者から若者へ資産移転する施策、社会契約の見直しは需要を増やすことになる。リカードの中立命題*7が成立していれば、構造赤字の一部を削減するための消費税率の引き上げを行おうが行うまいが需要は不変。しかし、実際は完全には成立しないので、消費税率引き上げは短期的にやや需要を下押しするだろう。だが、長期財政収支の改善、高齢者から若者への資産移転の観点からはやや需要を押し上げて、トータルでは駆け込みと反動減をならせば短期的に需要に大きな影響を生じない可能性もある。復興予算をきちんと消化していけばデフレ・ギャップがほぼ解消している*8であろう2014年4月に消費税率を引上げることを「そのタイミングでない」と断定することはできないように思う。
逆に、政府支出の増加による景気刺激の余地はあると考える。政府投資の名目GDPに占める比率は1996年度の8.6%以降、2011年度の4.6%までほぼ一貫して低下し続けている。日銀の政策金利がゼロ下限にぶつかった1995年9月以降、公共事業を増やすことによる景気刺激は行われてこなかった。農道まで舗装し尽くしてもう公共事業を行える対象がないとか、1990年代に数回行われた大型総合経済対策が有効でなかったなど、公共事業では景気は刺激できないという思い込みが世間にはあるように思う。実際には、東日本大震災による被災地の復興、災害に強い都市づくり、首都圏の混雑解消に必要な投資など、生産性向上につながる意味のある公共事業はあるし、これらを行って完全雇用を回復できればむしろ長期財政収支は改善できる。そうした公共事業は短期の財政赤字拡大を恐れず行うべきだろう。
評者も本書を読んでマクロ経済学について頭の整理ができたし、経済政策についていろいろと考えさせられた。流動性の罠からの脱出を図る政府、中央銀行の政策担当者はもちろん、広く有権者にも読んでもらいたい本である。