研究員お勧めの書籍を独自の視点で紹介
2008年9月27日
伝統的な経済学が、非現実的なまでに単純化した仮定を置いているために、結論も現実離れしたものになっていると指摘されて久しい。こうした中、多方面の学者が理論と現実の乖離(かいり)に注目している。例えば2002年にノーベル経済学賞を受賞した研究分野でもある行動経済学・実験経済学では、人は合理的な判断をするとは限らないという仮定の下で経済や金融をとらえようしており、合理的・利己的な個人を前提とする従来の経済学に一石を投じている。
本書の著者マンデルブロは、「フラクタル」という概念を1960年代に生み出した数学者である。フラクタルとは、例えばカリフラワーの小房のように、細かい部分に分解してみても、その部分一つ一つがまた全体と同じ形をしていることを示す。原書は2004年に"The (Mis) behavior of Markets:A Fractal View of Risk,Ruin,and Reward"というタイトルで出版されており、マンデルブロが80歳にして書き上げた、マルチフラクタルという考え方に対する思い入れの感じられる一冊となっている。
本書は、金融市場に焦点を当てて、従来の標準理論である金融工学モデルを批判し、現実をより正確に説明する理論としてマルチフラクタル・モデルを提示したものである。標準理論では、株価はブラウン運動を前提とし(1)過去の価格は現在の価格に影響を及ぼさない(予測不可能)、(2)価格の変動幅は統計をとると正規分布になる、(3)標準偏差は一定、と仮定されている。これに対して本書で示されるマルチフラクタル・モデルでは、(1)予測不可能である点は同じだが、(2)正規分布に替えてべき分布が仮定され、従って(3)分散は一定ではなく大きく外れた動きの頻度は高いとする。
マンデルブロによれば「常軌を逸した出来事は金融市場ではかなり頻繁に起こって」いるにもかかわらず、一般に「金融市場の暴落の可能性は、ひどく過小評価されて」おり、これは標準理論に欠陥があるためであるという。その上で、金融市場の破壊的な乱れは、「洪水」や「大気の乱流」などを説明するのに有効なマルチフラクタル・モデルを用いれば、より正確に説明できるというのが、著者の主張である。
確かに、近年の金融市場の動向をみると、ブラック・マンデー(1987年)やITバブルの崩壊(2001年)など、標準理論では統計上起こりえないような頻度で金融市場の暴落が発生している。こうした中、従来の見方とは異なる観点から市場を観察することで市場の普遍的性質をとらえようとするマンデルブロの姿勢は評価に値するものであり、そこから導き出された発見の数々も示唆に富む。具体的には「市場とは、きわめてリスクが高いものであり、既存の金融理論ではけっして起こるはずのないリスクが、現実には起こる」「市場は本来不確実であり、バブルは避けることができない」などの10カ条が教訓として紹介されている。
もっともその一方で、従来の標準理論にも利点はある。それは、マンデルブロ自身も認めるとおり、複雑な計算をしなくても全体像を把握することが可能という点である。さらに標準理論も標準偏差一定の仮定を捨てて、より一般化した方向に進化しており、マルチフラクタル・モデルは、依然、標準理論を代替するには至っていない。経済学は真理を追究する「科学」というだけではなく、実用性という「工学」的な側面を持つ学問であることを考えると、モデル構築においては与えられた制約や目的に応じてどのレベルまで単純化した仮定を置くかを選択する必要があるだろう。
なお、本書は、金融工学の発展の歴史や、マンデルブロがフラクタルという概念を発見するきっかけとなった綿花価格の分析など、学術的な内容を多く含むが、数式を使用することなく文章と図のみですべてを説明している。物理学に知見のない読者にとって分かりやすい内容となっている点も評価されよう。