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株式会社日立総合計画研究所

書評

研究員お勧めの書籍を独自の視点で紹介

セイラー教授の行動経済学入門:The Winner's Curse, Paradoxes and Anomalies of Economic Life :評者:日立総合計画研究所 西田一平

2015年1月8日

もし、ある朝に全くの偶然で一万円札を入手し、同じ日の夕方にその一万円札を落としたとする。数字だけでみれば偶然手に入れたものと同額を偶然落としただけなので、損得はないはずである。しかし、実際には損をした気持ちの方が強いのではないであろうか。

なぜこのようなことが起こるのか。経済学はしばしば「現実では役に立たない」とやゆされる。なぜなら伝統的経済学は「人は自己利益を最大化するために最も合理的な選択をすること(ホモ・エコノミクスの原則)」を前提としているが、現実はそうではないためである。例えば、宝くじの1等の当選確率は1000万分の1と、コインを投げて23回連続で表がでる確率より低く、還元率(当選金/掛け金)も50%以下である。このように確率も期待利益も非常に小さい宝くじにも毎年長蛇の列ができるのは、理論と現実の不一致の一例といえよう。こうした理論と現実のギャップを埋めるために従来の経済学に心理学(感情)の要素を加えて体系化したものが行動経済学である。

本書の原著初版は1992年、行動経済学分野の第一人者であるシカゴ大学経営大学院教授リチャード・セイラー氏により書かれた、行動経済学の基礎理論を網羅した「行動経済学の原点」と言える一冊である。例えば冒頭で述べている一万円札の事例は「保有効果」と呼ばれ、自分が既に所有するものに高い価値を置き、手放したくないと感じる現象である。以下、本書の経済実験に対する反応から、保有効果の存在が確認できる。

まず、マグカップが好きな「マグ愛好家」とそうでない「マグ嫌い」が同数存在するコーネル大学経済学部生44人に対し、マグ愛好家およびマグ嫌いのそれぞれ半数ずつにマグを与えた。そしてオークションを数回開催し、マグを売る学生・買う学生がそれぞれ提示する価格を観察した。理論上は「マグを配られたマグ嫌い」から「マグを配られなかったマグ愛好家」へのトレードが行われるため配られたマグの半数(11件)の取引が成立し、売値と買値の提示価格は近い値をとるはずである。しかし実験の結果は、どのオークションにおいても取引成立数は理論値の半分以下(4件以下)であり、売る側の提示価格(それ以下では売りたくない価格)中央値は5.25ドル、対して買う側の平均提示価格(それ以上では買いたくない価格)中央値は2.75ドルと大きな乖離(かいり)が観察された。この結果から、たとえマグ嫌いであっても保有効果(一度手に入れた物品を手放したくない気持ちが強くなる)がマグに発生したことを裏付けている。実際に、通販の広告で散見される「返金保証」も、一度買ってもらえば(よほどの粗悪品でない限り)返品を求められることはない、という保有効果を利用した商法である。このように行動経済学は、近い未来に「今後のビジネスパーソンにとって大きな武器となるスキル」としての地位を確立すると評者は考える。

しかしながら原著初版が1992年の本書で触れられているのは、あくまで行動経済学の基礎の部分、即ち、人の下す非合理な選択の一般的傾向にとどまる。行動経済学を具体性と正確性の双方を有するより実用的な知識領域へ昇華するためには、さらなる緻密なデータ分析・モデルが必要であろう。そこで昨今注目されているのが脳神経学を用いて感情の捕捉・定量化をはかる神経経済学(Neuro-economics)である。例えば、行動経済学のキーワードの一つに時間割引率*1が挙げられるが、これはセロトニンの分泌量に大きく左右される。セロトニンとは睡眠、痛覚、体温などの生理機能や、不安、うつなどの精神機能と深く関わる脳内物質で、セロトニンの分泌量が少ないことは割引率が高い(目先のことしか考えない)ことを意味する。神経経済学が発達・一般化し、セロトニンの分泌量の変化を常に捕捉できれば、個々の生物学的根拠に基づいた正確な割引率を出すことが可能となる。こうして計測された精微な時間割引率データを用いて企業が商品・サービスの価格決定ができれば、さらなる利益の増加(最大化)が期待できる。このように行動経済学は脳神経学など自然科学の発展の恩恵を受け、今後も大きな進化が期待できる分野である。

本書が網羅する行動経済学の基礎理論を習得することができれば、実際のビジネスでも役に立つ機会が大いにあるであろう。有名な例では、グーグルの社員管理である。行動経済学が主張するモチベーション・クラウディングアウト(締め出し)現象*2を防ぐため、グーグルでは「業務時間の20%は業務と関係ないことをして良い」という金銭以外のインセンティブを設け、Gmailなどのグーグルの中核を担う革新的サービスを生みだしている。

行動経済学は「人間の感情も考慮した上での『真に合理的な選択』を体系化したもの」と定義づけられる。選択そのものは人生のあらゆる場面において存在する。つまり行動経済学は経済・ビジネスに限らず、医療・教育・犯罪抑止など、多岐分野への応用が可能な学問である。人の意思決定における真の基準の解明に迫った本書は、人と接する機会の多い営業業務、また消費者動向を分析するマーケティング業務に従事するビジネスパーソンに、特にお勧めの一冊である。

*1 将来の損得と現在の損得の交換比率、高いほど将来の損得価値を過小に見ていることを意味する
*2 報酬が金銭面のみの場合、逆にモチベーションを下げてしまう現象

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