研究員お勧めの書籍を独自の視点で紹介
2013年6月19日
1980年代以降、日本の製造業をはじめとした多くの企業が、東南アジア諸国連合(ASEAN)を中心に生産ネットワークを構築してきた。特に、自動車や電気電子の産業では、生産工程を細分化し各工程をASEAN域内の最適地に配置することで生産効率を高めてきた。2000年代中ごろまで、この生産ネットワークの中心となっていたのは、シンガポールやタイ、マレーシアなどASEANの中でも比較的早くに経済を成長軌道に乗せたいわゆる「ASEAN先発国」であった。しかし今、カンボジアやラオス、ミャンマーなど「ASEAN後発国」を含むメコン川流域諸国・地域(*1、以降、メコン地域)が、低コストで豊富な労働力を供給する生産分業の新たな担い手として注目を集めている。2011年4月に発行された本書は、このメコン地域を取り上げ、進出日系企業・現地企業による域内近隣諸国への投資状況と、これと並行して進む経済回廊や鉄道網などクロスボーダーなインフラの推進プロジェクトの開発状況、の二点を主に紹介したものである。
著者は、日本貿易振興会(現、日本貿易振興機構(ジェトロ))のスタッフとして二度のシンガポール駐在とタイ駐在を経験し、現在はジェトロ企画部事業推進主幹(東南アジア・南西アジア担当)を務めている。20年超にわたりアジア各国の経済動向を見続けてきた著者は、メコン地域で事業を行っている日系および地場企業へのヒアリング調査結果を基に、中国一極集中の解消や、労働集約工程のさらなるコスト削減を主眼として、メコン地域内での生産拠点設置による分業化が進んでいると説く。中でも、タイやベトナムに進出している自動車・電気電子・繊維・食品産業の日系各企業が、安価な労働力を求めて隣国のカンボジアやラオスに投資する様子は、1980年代に「ASEAN先発国」に進出し水平分業を推進した当時の日本企業の姿をほうふつとさせる。昨今、「タイ・プラス・ワン」という言葉をよく耳にする。これは、タイにおける労働力不足と2013年1月からの最低賃金引き上げ政策の影響を受けて、タイの工場を生産ハブとして、カンボジア・ラオス・ミャンマーの分工場がその一部を分担する企業戦略・動向を意味して使われる。本書が発行された2011年当時既に著者は、このダイナミズムの萌芽(ほうが)を捉えていたことが特筆される。
企業が国際的な事業を営むには、電力や港湾、道路、通信などのハード・インフラと、国境での税関手続きの円滑化や透明性の向上などのソフト・インフラ両面での整備が必要である。メコン地域内では、各国間での経済発展段階にばらつきがある中、インフラ整備には地域や国により進捗に偏りがあり、まだまだ不十分であるのが実情である。メコン地域内での日系や外資・地場企業による事業活動が活性化することで産業界からのインフラ・ニーズの声も高まり、国の政策担当者にとって影響力のあるものとなる。一方の国の政策担当者もまた、活性化する産業界域内活動を自国の経済成長に取り込むべくインフラ投資のプライオリティーを上げる。こうしてインフラ整備が進むわけであるが、メコン地域の特徴として、著者は複数国を跨ぐクロスボーダーなインフラ整備が進んでいる点に注目する。具体的には、メコン物流ルートとして特に関心の高い、タイ・ベトナムの主要経済圏をつなぐ東西回廊をはじめとした各回廊が整備され、新しい道路や鉄道の開通、港や空港の新設を挙げている。ここで著者は、メコン地域内における回廊整備を利用した、日系・現地両企業による戦略的な輸送モード選択が見られることを指摘している。例えば、タイに生産拠点を有する日系自動車部品メーカーがベトナムへ部品を供給するケースでは、通関手続きの煩雑さなど幾つかの懸念事項回避のため、陸路ではなく海路の利用が多いのが現状である。しかし陸路利用の場合、海路に比べ輸送リードタイムの大幅な短縮が可能であること、少量で高頻度な出荷形態を持つ事業体にとっては海路に比べ小まめな輸送が可能であること、などのメリットが挙げられる。また、インフラや貿易手続の整備により国境通関時のトラック積み替えが不要となれば、海路に比べ貨物取扱回数も減り、輸送の安全性も向上するだろう。こうした背景から、陸路利用によるビジネス拡大の可能性が大いに期待されている。
域内で活発化していく国を跨いだ企業活動や、進展する広域インフラ開発の状況をみて著者は、メコン地域一体となった経済開発が進んでいると評価する。今後同地域を「メコン広域経済圏」として、アジア全体の中での重要性が一層増していくであろうと予想している。ここで著者が注目するのは、中国・インドなどの急成長により、クロスボーダーなインフラの整備が「メコン広域経済圏」の枠を越えて、南北そして東西へとアジア・ワイドに拡大してきていることである。中国の昆明からラオス経由でタイのバンコクを結ぶ南北回廊を例に取ると、中国・ラオス・タイの各国間で道路や施設の整備の質に違いはあるものの、既に高速道路や国道は開通している。陸路の全開通までは、ラオスとタイの国境に跨る第4メコン国際橋の完成を待つのみとなっている。また東西の拡大に着目して本書では、タイ・ミャンマー・インドを結ぶ新たな海路の構築が紹介されている。これは、インドの物流会社が、インドのチェンナイ港から出航し、ミャンマーのヤンゴン港を経由、そしてタイのラノーン港に寄航するというコンテナ輸送サービスを初めて行ったことで開拓された、新しい航路である。著者は、この新しい航路を利用したタイとインドおよびミャンマーの間の貿易額が徐々に増えていると指摘する。タイのラノーン港はインド洋に面し、港の貨物取扱量にもまだ余裕があることから、タイ港湾庁はインドへの輸出拠点として港の開発と機能強化を重視し始めている。同港を活用した、タイ・インド間の更なる貿易拡大が期待される。
メコン地域内、そして同地域と周辺国を結ぶインフラ開発の特徴は、アジア開発銀行や世界銀行などの国際機関や、日本・中国・タイ政府など、域内外の機関それぞれが独自の支援枠組みを使って競うようにインフラ整備を進めている点である。これに対し、本書の最後に著者は、日本・中国など各関与国がハード・ソフト両面でのインフラ整備などに向けた本格的な協力体制を構築する兆しがみえている、と述べている。その協力体制について、本書では明らかには述べられていないが、これはASEAN10カ国と周辺6カ国・地域のFTAを束ねる形で2013年5月に交渉が始まった、東アジア地域包括的経済連携(Regional Comprehensive Economic Partnership :RCEP)を指していると評者は考える。16カ国・地域による交渉はまだ始まったばかりであるが、このメコン地域を包含するRCEPでは、関税撤廃に加え域内貿易の円滑化や経済協力もまた、経済統合を深めるための重要な要素として位置付けられている。経済協力とは、具体的にはASEANと域外六つの国・地域を結ぶハード・ソフト両面のインフラ整備であり、統合市場RCEPの実現の鍵として認識されている。特にRCEP成立を機に、メコン地域を中心とした港湾・道路の整備のみならず、円滑な税関手続きのための制度構築がアジア・ワイドの広域インフラ整備としてさらに加速していくだろう。そして今後、このインフラを基盤に、製造業を中心とした日本企業による、クロスボーダー型の現地オペレーションが一層活発化していくことが期待される。
本書は、アジアにおけるサプライチェーンのあり方を検討する企業の海外事業企画担当者を中心に幅広いビジネスパーソンにお薦めしたい一冊である。