研究員お勧めの書籍を独自の視点で紹介
2010年10月21日
アップルは、「iPod」という超小型のデジタル記録再生装置と楽曲のインターネットダウンロードを組み合わせたビジネスモデルを構築し、成熟化した携帯音楽プレーヤ市場に新たな価値を創造した。グーグルは、高速なインターネット検索エンジンを無料提供し、ネットユーザを自社サイトに集める一方で、広告実施量に応じた従量制課金の仕組みをインターネット広告サービスの分野で構築した。日本においても、過去には、「動きながら音楽を聴く」ことを可能にした「ウォークマン」や、アーケードゲームを手軽に自宅で楽しむことを可能にした「ファミリーコンピュータ」など、画期的な製品を誕生させた。このように人々の生活に大きな変化をもたらすイノベーションにこそ、企業が競争社会を勝ち抜く鍵があるといえるが、最近、そのような日本製品の登場が数少なくなってしまったようにみえる。日本企業の多くは高い技術力を持ちながらも、新市場を切り開く力が乏しいといわれて久しい。これはなぜであろうか。
本書では、イノベーション創出の考え方や枠組みなど、その全体像を書き上げている。著者の伊丹敬之氏は、一橋大学の名誉教授であり、企業の経営戦略論や日本の産業構造研究の分野で著名な経営学者である。2003年、同学の21世紀COEプログラム「知識・企業・イノベーションのダイナミクス」の代表者を務めたことを機に、イノベーションの研究に取り組んでいる。
本書において著者は、「イノベーションは技術革新だけではない」と明言する。「技術革新によって生まれた新製品やサービスが人々に感動を呼び起こし、相互に増幅し合うことで、人間の社会を動かすこと」がイノベーションであると定義した。本書では、こうしたイノベーションを生み出すプロセス(イノベーションプロセス)は、「筋のいい技術を育てる」「市場への出口を作る」「社会を動かす」という三段階からなり、これらが積み重なってはじめて、人々に感動を与えられるようなイノベーションが生まれるとして、各段階における、プロセス遂行のための具体策を説明している。
第一段階は「筋のいい技術を育てる」。
イノベーションは新しい技術に基づく新製品や新サービスの提供から始まる。筋がいいとは、技術が、原理的な深さを持ち、人間の本質的なニーズに迫り、かつ自らの得意技に近すぎないことを意味する。自らの得意技に近すぎないとは、対象技術が個人的な技能やノウハウによらず、実現可能性の見込みがあることに加えて、他者の目にさらされる距離にあるということ。このような技術を育てるには、「技術が自走できる組織」と「技術の目利きの存在」が重要であるという。「技術が自走できる組織」とは、短期的な利益のための技術開発ではなく、技術的探究心による技術の深化を奨励、許容する組織風土が醸成するなど、研究と事業の間に健全な距離感を保つ組織である。そして、「技術の目利き」とは、自分自身または他人が行う技術開発の筋の良さを嗅ぎ分け、開発する技術テーマとその関連技術との全体的な発展を俯瞰(ふかん)し、社会のニーズの本質に迫ることができる人材である。著者はこれらの必要性を指摘するとともに、そのような組織の構築と、人材を育成、獲得することが企業の課題であると述べている。
第二段階は「市場への出口を作る」。
技術の世界と市場の世界の間の接点を作ることを第二段階として挙げている。そのためには、著者は「顧客インの技術アウト」と表現し、顧客のニーズを徹底的に考えて、潜在または未知のニーズまで掘り起こす意識(「顧客イン」)と、自らが持つ技術を、ニーズに合致した製品に仕立て上げていく発想力(「技術アウト」)が、「市場への出口を作る」には必要だと主張する。また、顕在ニーズや現在・過去の現実に基づくデータ検証に目を向けすぎることは、新たな価値創造にブレーキをかけるという。未知のニーズから価値を創造した「ウォークマン」のように、過去や現在の事実にとらわれず、市場に対して先んじて主張、発信していくことの必要性を著者は指摘している。
第三段階は「社会を動かす」。
人々が製品を受け入れ、感動を呼び、その感動が広がって大きな需要となってはじめて、製品が人々の生活を変えるインパクトを持ったといえる。社会を動かすためには、「コンセプト」「ビジネスモデル」「デザイン」など、抽象性が高く、他人への伝達性が高いドライバの存在が必須であると著者は述べる。例えば、製品コンセプトが興すイノベーションでは、顧客の中核的な利点を、コンセプトとして端的に表現することが重要である。その要件として、技術開発力は当然のことながら、「ニーズとシーズの相関構想力」「簡潔な言語表現力」が組織や開発者に備わっていることを条件として挙げている。しかし、日本企業では、相関構想力や言語表現力が常識的に技術者に必要だと思われていないため、それらを満たす能力開発環境が不足しており、結果として、コンセプト創造が容易ではないと指摘している。
著者は、イノベーションプロセスにおける人材の重要性を述べ、文理融合型の人材育成の方向性を提言し、技術者のキャリアパスと教育環境、文系理系人材の混合教育などの組織的な仕組み作りが必要であると述べている。現在、文部科学省において、経済学などの社会科学、工学などの自然科学の融合による新たな知識の体系化を通じた「サービス・イノベーション人材育成推進プログラム」も実施されており、その成果にも注目していきたい。
本書では、組織論的な内容を含むが、よく読むと、結局イノベーションを興すのは人であり、その人の生かし方、育て方がイノベーション創出の要点であるということが分かる。ウォークマンやファミリーコンピュータも、人から生まれたイノベーティブな発想が根源となって生み出されたはずである。現在のモノが溢れている世の中では、複雑なシステムやより高度な技術をニーズという形に解釈するスキルが一層求められているのではないだろうか。そのためには、自然発生的にイノベータの出現を待つのではなく、社会や産業システムの中に多くのイノベータを「意思を持って」育てていく機能を組み込む必要性がある、というのが本書に隠された主張点であると評者は考える。
本書はイノベーションの全体像を平易な言葉で表現し、よく知られる製品を過去の事例として紹介しており、イノベーションを理解する入門書として手に取りやすい。重要度が高まる技術経営という視点においても、参考になる一冊である。