研究員お勧めの書籍を独自の視点で紹介
2017年5月31日
2003年、ヒトゲノムプロジェクトによってヒト遺伝子の配列が99%解明された。しかし、それだけでは、当初期待されていたような、疾病原因が一気に解明されるということにはならなかった。その理由の一つとして、疾病原因には、人体の持つ遺伝子だけではなく、人体に共生する微生物が関係しているという点が指摘されている。本書は、ヒトと微生物の集合体(微生物集団=マイクロバイオーム*1)から構成される人体にとって、微生物の遺伝子の解読はヒト遺伝子以上に重要であると述べている。
著者のアランナ・コリンはユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで進化生物学の博士号を取得したイギリスのサイエンスライターであり、テレビやラジオでコメンテーターとして活躍している。彼女は研究のため訪れたマレーシアの熱帯雨林でダニにかまれ、感染症に罹患(りかん)した際、治療のため、大量の抗生物質を摂取したが、その後、それが原因でアレルギー、自己免疫疾患、さらに肥満になった経験を持つ。この経験から、抗生物質によりダメージを受けてしまった自身の体内の微生物集団の存在に気づき、体内微生物に関する調査を深めていくこととなった。
ヒトゲノムプロジェクトが終了した当時、多くの研究者にはヒトはなぜ少ない遺伝子で複雑な生命活動ができるのかという疑問が残った。著者はその答えを解くカギが体内にすむ微生物に多くの生命活動を「アウトソーシング」していることにあると述べている。本書は2008年に始まったヒトマイクロバイオーム・プロジェクトの研究結果をベースにマイクロバイオームとヒトとの関係性を述べている。
著者は19世紀から20世紀にかけて社会課題であった感染症と、20世紀から急増している疾患の相違が人体に存在するマイクロバイオーム様相の変化にあると主張している。従来の感染症は四つの医療・公衆イノベーション(予防接種、衛生概念の導入、公衆衛生対策、抗生物質の発見)によってリスクが軽減された。しかし20世紀に入ると先進国で肥満、糖尿病、過敏性腸症候群、アレルギー、自己免疫疾患、自閉症が急増するようになった。著者はこれらを21世紀病と呼び、腸内環境とマイクロバイオームとの関連に着目する。
21世紀病とマイクロバイオームとの関係性の例として肥満を挙げると、無菌マウスに、肥満型のマイクロバイオームを移植すると、通常のマウスのマイクロバイオームを移されたマウスよりも、同じカロリーの餌から2%多くのカロリーを吸収していたとする研究結果が存在する。体内のマイクロバイオームが異なることで食事から摂取されるカロリー量が異なり、自らを肥満になりやすい体にしたと推測される。
1万2,000人を対象に、体重と対人関係を32年にわたって分析した研究では、ある人が肥満になるかどうかは、その人の家族や親友の体重増加と強い相関関係があることが分かっている。例えば、配偶者が肥満になった場合は、その人自身も肥満になるリスクが37%に上昇する。この現象は親しい人とは生活や食事の嗜好(しこう)が似ているという社会性に起因している部分が大きいが、「微生物の交差」の可能性も原因に加えることができる。なぜならば、生活環境を共にするような近しい関係性の中では、同じものに触れ、同じ食事をし、同じトイレを使うなど同じ微生物を共有する機会が多く、結果的に肥満型のマイクロバイオームが伝染する可能性が高まったのではないかと本書では述べている。
ヒトはどのようにしてマイクロバイオームを得るのだろうか。胎児は羊水に漬かっているとき、完全無菌状態であり、微生物を保有していない。しかし、破水の瞬間から、母体や外部環境に存在するマイクロバイオームと接触する。中でも母親から受け取るマイクロバイオームは乳幼児に重要な役割を担う。ところが、最近では帝王切開での出産や粉ミルクでの育児により、母親からマイクロバイオームを受け取る機会が減っている。20代後半を対象にした調査*2によると帝王切開で生まれた子は経膣(ちつ)出産の子と比較して肥満の割合が5%高かった。これも、環境因子や遺伝因子のみならずマイクロバイオームの構成要因が人体の生命活動に絡んでいることを暗示している。
それでは、どのようなマイクロバイオームを形成するのが理想的だろうか。残念ながら一言で理想的なマイクロバイオームの形成を説明することは困難である。なぜなら特定の健康状態と特定の微生物が一対一で対応しているわけではなく、また、悪い微生物を取り除き良い微生物を増やせば理想的というほど単純なものではないからだ。しかしながら少なくとも肥満に対しては痩せ型組成のマイクロバイオームを腸内に形成することが重要であり、そのためには食物繊維の摂取が重要であることが本書では示されている。つまり、肥満解消には単なるカロリー摂取の問題ではなく、人間の代謝機能とマイクロバイオームの代謝機能との関わり合いに着目する必要性を本書は指摘している。また、食生活からのアプローチだけでなく、マイクロバイオームに注目した医療技術の開発も進んでおり、その一例として腸内疾患に対してふん便移植を行うことで直接的に腸内マイクロバイオームを正常化させた例が挙げられている点も興味深い。現在、問題視されている21世紀病とマイクロバイオームとの関連性の究明は新たな医療へのアプローチになると評者は考える。
本書は、いろいろな事例や研究結果のデータを元に、マイクロバイオームの観点から21世紀病の根本原因究明、および、解決策について分かりやすく説明している。しかし、病気とマイクロバイオームの相関関係を示してはいるが、具体的な発病メカニズムなどの因果関係を導くまでには至っておらず、医療技術への活用のためには産官学の連携によるさらなる検討が必要であると評者は考える。
一方で近年、プロバイオティクス*3を含有させた食品が登場するなど、医療業界だけでなく腸内環境形成の重要性は食品業界でも注目されている。本書を読むことで腸内環境形成の重要性、さらには、腸内環境を損なわないためにはどのような点に注意をすべきかの理解を深めることができる。本書は食生活の見直しなど一個人が今すぐにでもできることから、マイクロバイオームに着目した医療アプローチ拡大に向けた迅速な診断キット開発のアイデアや医療従事者の啓発の必要性など、社会全体として取り組むべきことまで言及されており、読み応えのある一冊である。