研究員お勧めの書籍を独自の視点で紹介
2011年3月30日
米国サブプライムローン問題は、米国証券大手リーマン・ブラザーズの経営破たんを経て世界的な金融危機へと拡大した。世界経済は、この「100年に一度」の危機からようやく脱しつつある。しかし、私たちが危機からの教訓を十分に理解できているとは言い難い。危機から何を学ぶのかを考えるために本書は格好の教材である。
今回の危機で明らかになったのは、80年代以降多くの経済学者や政策担当者が信奉してきた「市場自由主義(Market Liberalism)」(サッチャリズムなどの「新自由主義」をより中立的に表現して著者はこう呼んでいる)が誤っていたことだと本書は指摘し、にもかかわらず、再びよみがえって横行しつつあると嘆く。本書の著者であるオーストラリア・クイーンズランド大学教授ジョン・クイギン(John Quiggin)氏は、何度墓場に埋めても蘇生する誤った経済思想を「ゾンビ・エコノミクス(Zombie Economics)」と呼び、「市場自由主義」を支えていた5つの経済思想がそれだとして批判する。
v
一つ目のゾンビが「大いなる安定(Great Moderation)」思想である。85年から危機直前まで、大半の先進国で経済成長率や失業率の振幅が縮小していたため、景気循環はマクロ経済政策により克服できたと政策担当者は錯覚していた。これが幻想であったことは、今回の未曾有の金融危機の発生からも明らかで、IMFチーフエコノミストのオリビエ・ブランシャール氏などもその誤りを認めている*1。にもかかわらず、危機を一時的な景気変動(transitory blip)として、あたかも金融危機など無かったかのようにみなす研究もあり、マクロ経済政策の全能性という思想はゾンビ化して歩き回っていると著者は危ぶむ。
二つ目が「効率的市場仮説(Efficient Market Hypothesis、以下EMH)」である。金融市場で決定される価格は利用可能なすべての情報が織り込まれ、常に適正だと考える新古典派(New Classical)の思想である。政府の介入によって市場機能が阻害されない限り、常に金融市場は最適な資源配分を行うとする金融市場を絶対視した思想だが、これがやみくもな金融規制緩和と金融産業のむやみな拡大を招いたと非難する。
「動学的確率的一般均衡モデル(Dynamic Stochastic General Equilibrium、以下DSGEモデル)」が三つ目のゾンビである。DSGEモデルは、シカゴ大学など五大湖周辺に位置するため淡水学派(freshwater)と称される新古典派と、ハーバード大学、MITやスタンフォード大学など東・西岸に位置するため海水学派(saltwater)と称されるニューケインジアン(New Keynesian)という対極にある学派同士がともに生息できる、いわば汽水域(brackish)的な経済モデルである。マクロ経済理論モデルは、過去のデータに基づくべきではなく、ミクロ経済分析に基づくべきであるとする1976年のルーカス批判(Lucas critique)の行き着いた先がDSGEモデルといえる。DSGEモデルによる論文は、(前述のブランシャール氏の言い回しによると)「まるで俳句のように」定式化している。まず、完全競争市場、合理的期待形成(rational expectations)、EMHなどを想定し、家計は効用極大化、企業は利潤最大化を行うというミクロ経済分析に基づき、個々の財・サービス市場だけでなく、それらを合計したマクロレベルでも一般均衡が達成されていると考える。次に、ミクロ経済分析に市場の不完全性などの若干の修正を加える。最後にモデルによるシミュレーションを行い、もっともらしい動きをすることを示す、といった具合である。DSGEモデルは数学的に美しく、信奉する経済学者は多かった。しかし、無数の家計、企業、労働者を「代表的個人(representative agent)」として、全員を一様に扱うのは過度な単純化であり、モデルの示唆するところも非現実的なものである。DSGEモデルは、美しさを優先して、現実からかけ離れ、役に立たなくなったと本書は批判する。何より、マクロ経済学が発生した1930年代の大恐慌を説明できなかったし、今回の危機も同じく説明できない。
富者がより富めば、その富は貧者にも滴り落ちる(trickle-down)という「トリクルダウン理論(trickle-down economics、以下TD理論)」が四つ目のゾンビである。これはサプライサイド経済学の代表的思想で、実際に米国レーガン、ブッシュ政権ではTD理論に基づいた規制緩和や減税が実施された。しかし、行き着いたところはTD理論とは正反対の、富者はますます富み、貧者は行き場をなくす不公正の拡大だった。また格差拡大に伴い、教育、医療、雇用面で「市場自由主義」が唱える「機会の平等」は失われ、米国の社会移動(世代ごとに富者と貧者が入れ替わる程度)は先進国中最低水準にまで低下してしまったと批判する。TD理論の正当性を認める統計は存在しない。
五つ目が「民営化(privatization)」。何でも民営化すれば、国の財政は助かるようにみえるが、リスクの最後の担い手としての政府の価値を認めない粗雑な考えであり、実際にも民営化には成功例よりも失敗例の方が多い。
5つのゾンビを墓場に埋めたとしても、「市場自由主義」に代わる考えを広めないとゾンビはまたよみがえってしまう。そこで著者が示すのは、ケインズ経済学と混合経済(mixed-economy)の再興である。幸いにも今回の危機は大恐慌の再来を回避できた。救ったのは、DSGEモデルのような最新といわれる経済学ではなく、大規模な金融緩和と財政拡張のポリシーミックスという伝統的なケインズ経済学だった。その上で著者は、70年代のスタグフレーションの原因は果たしてケインズ経済学の欠陥にあったのかと問い掛け、新しいケインズ経済学の確立を提言する。
また、混合経済の重要性も指摘している。政府の失敗ばかりが強調され、「市場自由主義」がはびこってきたが、その下では、時として市場は適正価格と乖離(かいり)した価格付けをすることがあることを私たちは過去の不合理な資産バブルの生成と崩壊、そして今回の危機から学ぶべきだ。著者は今回の危機を機に市場の失敗の代償も十分に高いことを再認識し、自由放任(laissez-faire)でも計画経済でもない第三の道として、私有制と公有制が並存する混合経済を築けと説く。
著者はオーストラリアにあって、米・英・オーストラリア・ニュージーランドなど英語圏諸国で過去30年吹き荒れた「市場自由主義」を欧州型の「社会民主主義」優位の立場から批判している。読者の信じている経済学や価値観によっては、本書は不愉快かもしれない。それでも、経済思想の変遷を知るのに役立つと考える。読者が本書の考え方に賛成するにしても、反対するにしても、今回の危機は私たちおのおのが信じている経済学を今一度省みる良い機会となるだろう。