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株式会社日立総合計画研究所

書評

研究員お勧めの書籍を独自の視点で紹介

医療崩壊か再生か:問われる国民の選択 :評者:日立総合計画研究所 袴家伸祐

2009年7月27日

医療現場で苦闘する医師の立場から、我々が取るべき選択は

近年、医療現場において「医師不足」「たらい回し」「受け入れ拒否」などの問題が起こっており、医療の崩壊(現状の医療体制の維持が困難となっていること)が新聞などで頻繁に取り上げられている。本書はこのような問題に関して、医療現場の立場からその実情を、政策・業界動向まで客観的に分析し、今後の医療のあり方について述べている。

日本は国内総生産(GDP)に占める医療費(医療機関に支払う費用)の割合が世界の先進諸国に比べて少ない。経済協力開発機構(OECD)が世界各国の医療制度に関して調査した2008年の「保健医療統計;Health Data」では、アメリカの医療費がGDPの約15.3%を占めており第一位である。それに対し、日本の医療費はGDPの8.1%とアメリカの約半分であり、OECDに加入している28カ国の平均8.8%も下回る。一方で、乳児の死亡率は日本が低く2.6、アメリカが6.9である。また、世界保健機関(WHO)が2006年に発表したデータでは、日本は介護や介助なしに元気に暮らせる状態を表す健康寿命、および平均寿命の長さがともに世界第一位である。マクロの視点でみると日本はほかの先進国に比べて少ない医療費で効果を挙げていることになるが、国内の実情をミクロの視点でみると医療の崩壊といった問題がみられる。このギャップはなぜ発生するのだろうか。これが本書の問題意識である。

著者は二つの原因を指摘している。一つは政府の医療費削減政策である。少子高齢化社会の進展に伴い、医療費が国民所得の伸びを上回る勢いで増大している。2006年の日本の医療費総額は33兆円で、国民所得の8.9%を占めていた。2006年の厚生労働省の推計(出典:厚生労働省「社会保障の給付と負担の見通し」,平成18年5月)では2015年には47兆円、2025年には65兆円と拡大し、医療費の伸びが日本の国家予算を圧迫すると考えられている。これに対応するため、政府は2002年以降、度重なる診療報酬の削減(2002年:前年比‐2.7%、2004年:前年比‐1.0%、2006年:前年比‐3.2%)を行い、結果として、医療現場では医療機関の収益の圧迫や低報酬診療を中心とした受け入れ拒否を加速させた。

医療崩壊のもう一つの原因は医師数抑制に伴う「医師不足」である。OECD2008年の「保健医療統計;Health Data」によると、人口千人あたりの医師の数は日本が2.1人で27位と低いにもかかわらず、年間受診回数は13.7回で第一位である。アメリカのデータ(医師数2.4人,受診回数4.0回)と比べると、日本の医師の多忙さと医療への献身ぶりがうかがえる。このように医師の絶対数が不足している医療現場の中で、医療費削減を主眼とした医師数抑制は医師の疲弊を招く。結果として「医師離れ」現象が起こる。現在、大学医学部の定員を増やす方向で検討が始まっているが、医師の育成には10年以上かかるのが実情であり、早急な事態の改善は期待できない状況にある。

著者は医療現場を再生するために、医療費の財政負担のあり方と医療スタイルの変革を説いている。医療費の財政負担の変革では、世界一と言われる質の高い医療を受けるためには、それに応じた負担を国民が負わなくてはならないと筆者は述べている。結論として、消費税を目的税として医療に限って使用するなど、国民の負担増を図り、医療費削減政策を転換することで、平等で安定した医療費を確保できるとしている。

医療再生に必要な施策の二点目として挙げる医療スタイルの変革とは、入院治療から通院治療への転換である。患者の受診回数低減につながる在宅医療の推進や、病気の治療中心から予防に重点を置いた予防医療への転換を提言している。近年、世界的に予防医療のサービス事業に関心が高まっており、アメリカではGoogle Healthなど民間や企業が運営する健康管理サービスが立ち上がり始めている。これは現時点では、ポータルサイトを通して、過去の診察履歴や体重・血糖値など個人の健康情報を管理してくれるサービスだが、将来は医療機関と情報連携し、生活習慣改善などのアドバイスを受けることも可能となる。日本でも政府が2005年の医療制度改革大綱で予防医療の重視を大きく打ち出しており、大学、医療関係者などからなる委員会で議論が進められているところである。

本書で述べられているこれら二つの変革は重要な視点であると評者は考える。財源を確保することで、医療機関の収益構造は改善し、予防医療の拡大によって多大な受診回数を減らすことができる。一方で、増加を続ける医療費の問題にも目を向ける必要があろう。医師である筆者は、医療崩壊をいかに防ぐかに重点を置いた論理展開をしているが、(1)高齢者の増加、(2)新しい治療方法開発による恒常的な保険適用範囲の拡大、(3)さまざまな方法で限りない延命治療を求められる医療現場、という医療費拡大の構造的問題を解決するための政策議論を進める必要がある。予防医療については、医療機関、診療所、健診センター、保険事業者などの異なる医療機関だけでなく、健康促進に向けた民間サービスとの連携も必要である。個人のQOLを向上させるためのサービスのあり方など、医療現場の視点だけでなくユーザーの視点に立った予防医療が求められよう。また、予防医療は個人の健康状態を正確かつ継続的に把握することが重要となる。センサーにより生体情報を取得し、その情報を医療機関と連携して一元的に管理するなどITを活用することで、より高度な予防医療ビジネスを実現することができる。今後日本においても予防医療サービスにかかわるビジネスが拡大すると評者は考える。

医療は人の命につながる大切な分野であり、生活する上でなくてはならないものである。各人が責任を持って自身の健康を管理することで、医療機関との持続可能なより良い関係を築くことができる。本書は医療現場の状況を平易な説明と多くの図表で記しており、医療にかかわる人だけでなく、それ以外の人々にも医療政策のあり方を考える入門書としてお勧めしたい一冊である。

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